『山道』

 じょーわじょーわじょーわ……

 九月も半ばを過ぎたのに、まだまだ暑くて日差しが強い。蝉時雨も耳を劈くようだ。
 もう腕が千切れそうだ。重たい革張のキャリーバッグを引きずって、あたしはかれこれ三時間山道を歩き続けてる。
 どうやら、完全に道に迷ったらしい。

「あーあ、だから女はダメなんだ。地図も読めないのか?」
 あたしの背中から、男が声をかけて来た。
「いーから、黙ってて」
 あたしは男を見向きもせずに不機嫌に答える。
「どうだい、道案内するよ? 元々この辺は地元だし、道は良く知ってるんだ」
 しつこい男だ。
「黙ってろっつってんだろ!」
 あたしはついカッとなって、引きずっていたキャリーバッグをスニーカーで思い切り蹴り上げた。
 ごつん。ぐちゃ。バッグが鈍い音を立てて、中の『荷物』の嫌な感触が、ケースごしに伝わってくる。
「ひうぅ」
 バッグの中から、あいつの情けない声。これでしばらくは静かにしてるだろう。
 でも、いけない、落ち着け。あたしは辺りを見回す。こいつがこれ以上|傷む《・・》前に、早く|処分場《・・・》に行かないと。

 元々財産と保険金目当てで結婚した男だったけど、半年足らずの結婚生活は本当最悪だった。
 金持ちのくせにケチで、口うるさくて、夜もしつこくて……。
 全く、|始末《・・》がつくまで、良く我慢できたと思う。
 山持ちだった男が一度だけ連れて来てくれた、群馬にある自分の山の採石場跡。
 幾つも空いた暗くて深い穴ぼこに、こいつを放り込んでおけば、絶対にバレやしない。
 完璧な計画だった筈なのに、歯車がズレたのは車を降りてからすぐの事だった。
 狭い山道で足を滑らせて、キャリーバッグごと崖下まで滑り落ちてしまったのだ。
 幸い怪我は無かったし、どうにかここまで登ってきたけど、それから、何だか様子が変になった。
 妙に頭がボンヤリして、地図を頼りにどこまでも進んでも、採石場は見えてこない。
 おまけに山道なのに、道端のそこかしこで血色の水溜りがボコボコと湧きあがってるし、硫黄の匂いがプンと鼻をつく。
 まあいいや。あたしは頭を振る。あいつの『臭い』も気にならなくて、丁度いい。

「もう、何でもいいから早くココから出してくれよぉ! 暗くて狭くて暑くて、気が狂いそうだよぉ!」
 あたしの背中からまた、あいつの情けない悲鳴が聞こえて来た。
 まったく最悪だ、死んでからも、まだ五月蠅い男なんて。
 あたしは汗を拭う。山道をひたすら進む。
 頑張れ、お金が下りたら、海外旅行。高級ブランド。毎日パーティ……
 大丈夫。少し道に迷っただけ。採石場はきっと、すぐ、そこだ。
 気がつけばいつの間にか日も暮れかかり、赤黒く夕陽に染まった山道。
 辺りは暗くなって林も抜けたはずなのに、何時まで経っても鳴り止まない蝉の声。

 じょーわじょーわじょーわ……
  じょーわじょーわじょーわ……

 蝉の声が、何だかあたしを嘲る嗤い声みたいに聞こえてきた。

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