『テオスの終末』

 もう暑さなんてどこにもない。命を賭した蝉の叫びも、はしゃいで駆け回る子どもの声も、何もない。塀の側でただ静かに揺れる、背の高い雑草がゆらゆらと踊っているだけだ。何処へ行くのだろう。部屋の窓枠に吊されたままの夏が、りいん、と悲しそうに高く泣いた。
 つい最近まで多い茂っていた緑は、はらはらと散り、無残なほどその芯だけが残されていた。窓を開けると肌を撫でる風は冷たかった。鼻をつくにおいに満たされて、私は読み終わったばかりの本を閉じ、頬杖をついた。

 元々それほど人がいるわけでもないこの街は、どうしてか建物が多かった。いつもテナント募集の文字が張り出され、必要の無いその入れ物が崩れるのを待っている。取り壊すには多くの金が必要なのだ。
「まるで人みたいだ」
 自分の意思で生まれることを許されず、人生という用意された紙の上を這っていくインクに過ぎない人間は、その少ない頁にたくさんの字を残していく。技術という色を足したり引いたりしながら、命を交代し繋ぎ書いてきた生命の物語。
 自分たちが何者であるかすら知らされず、ただ働き、ただ愛し、ただ死んでいく。そんな生き物のたどり着く楽園は何処にあるのか。
 しかし同時に、この物語の最終章も気になった。そして何より、美しき終末が彼らの瞳にはどう映るのかが知りたかった。
 陽が空を焦がし始める頃、低く震えた声が私の耳に届いた。
「あのう。」
 振り向けば、黒髪の青年が立っていた。背はあまり高くない。
「おや、君は行かないのかい。」
 頬骨の出た細身の彼は、私に近づくと片方の膝をつき、胸の前で指を組んでみせた。
「はい。」
絞り出された言葉が落ちる。握られた手が揺れている。かなり強く握っているようだ。そして続けて、此処にいても同じですから、と彼は言った。
「それは私に話しかけるときにする姿勢、だったかな。」
「間違っていますか?」
「いいや。そもそも正解なんて無いからね。君の好きな姿勢をとるといい。それが最期なのだから。」
 そう言っても彼は震えたまま姿勢を崩さない。
「あのニュースを覚えていますか。」
「ああ、巨大隕石墜落で世界が終わるというニュースかな?うふふ、確かに隕石はここに落ちてくるよ。いくつもね。」
「昔から、いつもあなたはこの窓際に座っていましたね。」
「声をかけてくれたらよかったのに。」
「話しかけようと思ったこともありました。しかしあなたの、その闇を煮詰めたような瞳が恐ろしかったのです。」
「ひどいなあ。」
 私は彼から視線を外し、窓の向こうで黒に呑まれた空を見つめた。
「ここ数日間は誰もが取り乱し、助けを請い、逃げ惑っていました。しかしあなたはいつものようにこの窓際で本を読んでいた。」
「そうそう、今回のお話もとても面白かったよ。君の書く物語はなんだか私の考えることに似ているんだ。まだオチは読んでいないのだけれど。」
 その黒を更に塗りつぶすほどの白い光が数え切れないほど見えた。
「君の物語は、私の物語だった。」
 私は『テオスの終末』と書かれた本の表紙をするりと撫でた。
「まるで空が降ってくるようだと、君の書いた小説にあった。本当にその通りだよ。想像というものは、時に人知を超え、私ですら知らなかったことを予知できるのかもしれないね。」
地平線の向こうで、赤い花が咲いた。目に映るものをかき消すような大輪。
「どうか最期に、あなたの名を教えてください。」
「私に名はないよ。強いて言うのであれば、そうだな。」
 彼の方へ向き直ると、薄い唇を噛み涙目になった姿が目に映った。

「私は『ある』という者さ。」

 もう彼の声も、私の声も聞こえなかった。全てが明るい何かに包まれた。案外呆気なく終わってしまうのだなと思った。

 色のない空間で、私は彼の書いた最期の本を手に漂っていた。
 空が降ってくるようだった。その表現が実に面白かった。星が降ってくるでもなく、落ちてくるでもなく、空が。空が降ってくるのだ。一体どんな光景なのか、私も見てみたくなった。テオスがそれを実行したように、私も真似してやってみたのだ。
 しかしその先はまだ読んでいなかった。実際に終末を迎えた世界がどうなるのか。私の世界が消えたように、彼の世界もきっと。
 まるで子どものように弾む心で、続きを読み始めた。

 読み終え、本を閉じると同時に青年の最期の表情を思い出した。そして、幼い彼が私と目が合ったときに恥ずかしそうに走り去っていく姿も。
 そうか、この物語が私の物語であるなど妄想でしかなかったのだ。
 青年にはすまないことをした、なんてまるで人間のような言葉が目元からこぼれた。

「起きなさい!」
 甲高い怒鳴り声が聞こえた。
 驚いて飛び起きると、目の前に母が立っていた。
「学校、遅刻するわよ。」
 目覚まし時計は止められ、その針は八時を指していた。八時半には全校朝会があることを忘れていた。
「今行く。」
 俺は机の横にかけてある鞄と、クローゼットにかかった制服を手に、すぐ居間へと向かった。
 一通り身支度を済ませて靴を履いているとき、自室に筆箱を忘れたことを思い出して慌てて取りに行った。
 机の上には散乱した原稿用紙とメモ帳。いつか小説家になることを夢見て、文を書き続けている。
「あった。」
 黒の生地に白いラインが入った小さな筆箱。それを手に持った瞬間、筆箱の下敷きになっていた原稿用紙が数枚、机から落ちた。しかし拾っている時間など無い。俺は急いでそのまま玄関へ駆けていった。
 昨晩、書き続けていた物語が完成したのだ。今の俺はよく書けたのではないかと思うが、もしかしたらそうでもないかもしれない。初めて最後まで一つの物語を書けたのだから、大人の自分に直してもらうために温めておくのもいい。今日、学校から戻ったらあの物語をどこかに保管しておこう。
 主人公は人間に紛れて生活する神様だけれど、人間に対する愛情はあまりない神様で、人間に飽きて、今ある世界を壊そうとする。しかし一人の男が神様の友だちになる。神様だって一人は寂しいだろうから、友だちがいれば少しは人間を愛せると思うんだ。
 子どもの考えるお話のように思えるかもしれない。でも俺の家の近くに、とても綺麗な神様がいるんだ。いつも窓際で本を読んでいる、真っ黒な瞳の神様。男なのか女なのかもわからないけれど、俺と目が合ったら笑ってくれるんだ。
 主人公はその人をモデルにして書いたから、小説家になってこの物語を本にして、いつかあの人が読んでくれたらいいな。

 題名はそうだな、主人公の名前をとって『テオスの終末』なんてどうだろう。

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