『昼さがり』

 穏やかな風が吹く。八千七百円で刈った毛が、ふわふわとする。午後を過ぎた柔らかな陽が、ゆらゆら流れていく。デスクの椅子は、クッションが効いている。指定席だ。
 初めは嫌がって、そこを占拠する度にご主人はひょいとベッドの方に持っていっていたが、やがて根負けしたようで、一回り大きな椅子を運んできた。おかげで、パソコン用のデスクには、二つの椅子が窮屈そうに並ぶことになった。一つはご主人用、もう一つはアメさん用。俗に言う、椅子ガ原の乱の結果、アメさんは自分の領地を手に入れたのだ。

 * * *

 整えられた芝が広がっている。足元には黄に赤の入ったタンポポが伸び、川沿いにはイエローの菜の花が並んでいる。遠くに双子の山がそびえ、背後には水色の空。風はゆるりと吹き続けている。
「あー」
 両手をそろえて、背中を沈め、おしりを上げて、伸びをする。口を大きく開け、あくびする。テントウムシが不思議そうに見つめていた。とろりと、うとうとするのを堪え、喉から声を張る。
「おーい」
 返事はない。けれどアメさんは彼女には聞こえていることを知っている。お皿に何時も水が満たされているように、それは当然のことなのだ。
 青草が揺れて、ちりんちりんと聞こえてきて、白い塊がわっと飛び出してきた。
「ばあっ」
「んー」
 こうやって何時もアメさんを驚かそうと襲ってくるのだが、野生から離れた体の運びと、茶色の首輪についた鈴のせいで、台無しになっている。
「ん? やっぱり、気づいてた。ほんと、賢しいねー」
 くりっとした瞳が、不思議そうに見つめる。あと二、三回したら、教えてやろう。
「おっ? 毛を切ったな」
 グレーに黒の縞模様がかかった毛並みを、なめしながら答える。
「春ですから」
 くんくんと匂いを嗅ぎ、そこにリンスの香りが残っていたように、うらめしそうな顔をし、ぶーたれ、
「オスなのにねー。何ででしょうねー」
 耳をかき、口髭をもぞもぞさせる。
「いいってもんんじゃないよ。ほんと。ケージに一時間は閉じ込められるし、車はごとごとするし」
「いいわよー」
「おまけに、水は冷たいし。ドライヤーは、ぼーぼーだし」
「うーん、シャワーは嫌かも」
「嫌なもんさ」
「でも、羨ましいよぅ。オスなのにー」
 悪戯っぽく間がおかれる。次の台詞は容易に連想される。
「オカマなのにー」
「うっさい! 好きで取ったんじゃない!」
 男であることを失った時、ただただ痛くて、夕食をボイコットしたことを覚えている。もう恋が出来ないという痛みは、これからじわじわ味わっていくものなのだろう。
「だからウチ猫では当たり前なの!」
 そう先輩から教わった。と言っても、もうおじいちゃんの年なのだが。本棚に助走無しで飛び乗れる、俊敏な彼ももちろん、玉無しだ。
「あんたこそ、避妊手術を受けりゃいいんだ!」
「へーき。へーき。男なんて寄ってこないって。わたし、外に一度も出たことのない、箱入り娘なのよ」
「箱入り娘ですかい」
「箱入り娘なのよー」
 語尾がじとっとしている。
「オレもそうだよ」
「箱入り息子なのね」
「ああ」
「箱入りおかまか」
「あー」
 ふぅと息をつくと、合わせたかのように風の向きが変わった。そこに甘い匂いが加わる。
「来るな」
「来るね」
 雲は薄紅色を帯び、キャットフードのようなデフォルメされた魚の形をし、どんどんと大きく、近くなっていく。そして、それごと降ってきた。

 ばふん。
 アメさんの視界が雲に包まれる。かろうじて隣で上下するシルエットが浮かび、鈴の音が聞こえる。少し湿った感覚が皮膚を覆うが、毛はちっとも濡れていない。甘い、粉砂糖を溶いたスープのような。もしかすると、昔ペットショップで兄弟と競うように分け合った母のミルクの味かもしれない。柔らかな雲が舌をちりちりと掠め、喉を潤す。空をゆらゆら小さなイワシの群れが漂い、ひょいと爪を招くと、ぽとりと落ちる。ぽとりぽとり。がつがつ。新雪のように柔らかく、肉とクッキーの中間の味がする。魚肉ソーセージに近いようで、どこか決定的に違う。
「今日のはちょっとカニっぽいね」
 カニカマしか知らないが、なんかそう言いたくなった。
「春だからねー」
「うん、春」
 とろとろと白に包まれ、まぶたも重くなっていく。
「また……」
 もぞもぞと口を動かす。一応、声にはなっていたようで
「またねぇ」
 とこちらも眠そうな声が返ってくる。
 暖かい。あたらしく暖かな。あらためて暖かな。あらかた暖かな。なーなー。なぁ。

この短編小説にはまだコメントがありません。
ぜひ一番最初のコメントを残しましょう。