『遠い冬の中』

 灰色の空の下,横断歩道を挟んだ向かいに彼女は立っていた.白いダッフルコートに身を包んだ彼女は,いつかのように微笑んでいた.辺りは彼女以外の人はいなくて,閑散としている.無骨な背の高いビルや等間隔に並べられた裸の街路樹がいっそうその寂しさを際立たせていた.華奢な彼女がその中に佇むとひどく頼りなげに見えて,僕は落ち着かなかった.丈の長い白のコートは彼女によく似合っていたけれど,鈍色の空や道路の黒のように色の少ない景色と彼女の服装があまりに馴染んでしまっていて僕には消えてしまいそうに見えたのだ.彼女の周りでは唯一,信号の赤色だけが霞んだ空気の中で鮮やかに光っていた.
 僕は手を大きく振った.それから,声を出して彼女を呼ぼうとした.しかし,喉が乾いて上手く声がでなかった.仕方がないので口を開けたままの間抜けな表情で手だけを振ると,彼女はゆらゆらゆっくりと手を振り返した.頬を赤くしながら笑う僕がよく知っている表情と力の入っていない仕草が合っていなくて僕は不思議に思った.
 さあっ,と僕の後ろから強い風が抜けていった.生暖く湿った風は横断歩道を通り過ぎると途端に凍てつくような温度に変わったようだ.向こう側の彼女が華奢な体を震わせた.恨めしく後ろを振り返ると,背の高い向日葵たちの葉が風に靡いていた.彼らは己とよく似た太陽を見上げて力強く咲いていた.僕側の景色は彼女側とは打って変わって鮮やかだ.空の青,向日葵の鮮やかな黄色と葉の緑,そして太陽の眩しさが目に痛い.僕は日差しが鬱陶しくてTシャツの前身ごろをバサバサと仰ぐ.
 信号を見つめた.まだ赤のままだ.
 向こう側では白が散らつき始めた。彼女は身震いしてマフラーに顔を埋めた.
 白い雪はさらに強くなる.こちら側の日差しもきつくなる.
 僕と彼女の間の道路はもやもやと霧に包まれ始めていた.横断歩道の輪郭がぼやける.
 霞んでいく彼女の姿を僕は必死で見つめた.目を離したら見失ってしまう気がした.彼女の表情はもう見えない.そして,彼女はいつまでたっても変わらない信号に踵を返して歩き始めた.
 白いコートが吹雪の中に溶けていく.僕はそれを黙って見つめるしかない.だって喉がひりついて声が出ないから. 彼女の姿が見えなくなると同時に夜が来た.辺り一面が紺色に染まり,黄色い円い月が昇ってきた.信号はまだ変わらない.

 目覚めるとまだ夜だった.窓の外から虫の声が聞こえる.寝る前腹にかけたタオルケットが布団の外へ蹴飛ばされていた.今の季節は夏だ. 僕は気づいた.彼女はこの季節にはいないのだ.色の少ない冬に置き去りになった彼女はこの夏に来ることは二度とない.僕はようやく思い出した.

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