『書庫』

先輩が重い扉を開けると,古い紙とインクの独特な匂いがなだれ込んできた.
薄暗い書庫の中には私の身長の2倍はあろうかという本棚がずらりと並んでいて,そのどれもに隙間なく本が詰め込まれていた.普通ならばその大きさと数に圧倒されるだろうが,それらは不思議とこの薄暗い空間にしっくりと馴染んで落ち着いていた.
「それじゃ,始めるよ」
はっきりとした先輩の声が,静かな空間に響いた.その言葉を合図に,同僚や後輩たちも動き出す.彼らは,整然と詰められた本たちを,乱暴に引き抜き投げ捨てていく.私も作業に取り掛かった.

 電子機器やネットの発達する世の中で,いつしか『本』は紙媒体からコンピュータの中へと移っていった.学術書,小説,漫画,雑誌,個人の日記でさえ,手のひらの上の薄っぺらな端末1つで持ち歩けるようになった.さらに,技術の向上で人工的な光が眼に与える悪影響が限りなく小さくなり,小さな端末の持つ容量もより莫大なものになり,電子書籍の持つデメリットは目立つものではなくなった.
代わりに,人々は重く嵩張り劣化する紙の利点がなんなのかわからなくなっていった.気づけば,『本』は実態のないモノという認識が広がり,資源の無駄を省くために紙の書籍の製造は中止され,紙とインクで言葉が残された本を街で見かけることはなくなった.

そして数年前,紙媒体の本はすべて貴重な『資源』として再利用し,『本』はすべてデータ化されることが公で決定した.

 紙の本を扱う書店は十数年前にはなくなっていたけれど,閉館したままになっている図書館や個人の書斎などに紙の本は少ないながらも残っている.私たちの仕事は,それらの本を回収し,既にデータのあるものは資源へ,データのないものはデータを取り込んでから資源へ変えていくことである.個人の本の回収は,所持者の反対で権利等々の問題が生じることもあるため後回しになりがちで,現在の回収作業は図書館を対象にしたものが多い.

もう何年も前に閉館した図書館は,かつて多くの人が利用していたはずだが面影は一切なく埃っぽかった.はじめに閲覧室の資源回収をしてから書庫での作業へ移っていく.書庫には年代の古い本や希少な本も多く,今回も未だデータを取っていない本があった.データを取っていない本は未回収本として資源本と別に一旦作業員が保護しておかなくてはならない.しかしながら,未回収本のタイトルや場所はわかっているうえ数も多くないので,だいたいはずっと本を回収ボックスに投げ入れる作業になる.
 私たちは,本棚から本を抜き取り,ひたすら回収用ボックスの中に投げ入れていく.背の高い本棚は色とりどりの本を失って無機質な骨組みへ変わっていく.半日ほどで書庫は灰色の鉄筋が立ち並ぶ殺風景な空間へ変わった.

 私は今回,2冊のデータ未回収本を担当した.古くて,でも傷みが少なく本の状態はよかった.きっと大切にされてきたのだろう.私はこの本たちから中身の情報だけを抜き取り,今まで大切にされてきた本の本体は資源に回す.
少し前,回収対象の本を持つ人に,本は持って行かないでくれと懇願されたことがある.データ化はしても良いから,手元に残しておきたいと.私たちはそれを断った.データを回収し終えた本は資源に回さないといけない決まりがある.それに,いまどき紙の本なんて時代錯誤だと揶揄されるだけで,所持していたところで価値も意味もない.
 私だって,紙の本の思い出がないわけではない.まだ紙の本が流通していたとき,祖母が読み聞かせてくれた絵本があった.私は幼い時その絵本が大好きだったけれど,成長とともに読まなくなり,懐かしいと思えるころには資源として回収されて実物はなくなっていた.でも,また読みたいと思えば,データでその『本』を読めるのだからなんの問題もない.なんの問題もないのだ.

 図書館回収の日から一週間,不備があったと私たちの部署に連絡がきた.未回収本の1冊を誤って資源回収ボックスにいれてしまったらしい.その本を担当していた新人はしきりに謝っていて,先輩は心底面倒くさそうな顔をしていた.
 その未回収本は他に同じものが残っていないため,データの回収のためには資源回収ボックスの中から探しださなければならない.つまり,未回収本を見つけられるまで資源になるはずだったあの図書館の本は,本のまま残される.ほんのわずかな間,誰かに大切にされた本たちは本来の姿のまま生き延びる.
 紙の本なんて時代遅れ.そう思っているはずなのに,私は自分でも気づかないうちにそっと息を吐いていた.

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