『夢の幸福装置』

アール氏はとにかく幸せになりたかった。だから幼い頃から勉強を頑張ってした。そうやっていい大学に入って、いい会社に就職し、50歳の若さにして大手企業の代表取締役にまで上り詰めた。お金に困ることは全くなく、また奥さんは綺麗で周りの評判も良く、さらに子宝にも恵まれて、誰がどう見ても幸せそのものという生活を送っていた。
しかし、アール氏は幸せを感じていなかった。全てが上手くいっているのに、なぜだか分からないが幸せを感じることは少なかった。常に上を目指してきたが、どこまで上り詰めても幸福にはなれなかった。

ある晩、会社の帰り道にアール氏はスーツを着たスタイルの良い男に声をかけられた。
「突然すみません。あなたはアール氏ですか?」
「いかにも。なんの用だね?」
「実はちょっとアール氏に試して欲しい装置がありまして……」
そう言いながら、その男は胸ポケットから名刺をアール氏に差し出した。その名刺には、”幸福研究所所長"という黒い文字がプリントされていた。
「私は幸福を感じられる装置を研究している者です。アール氏が幸福をなかなか感じられないという話を人づてに聞きました。ぜひ一度我が研究所の装置を試してみて欲しいと思いまして……」
アール氏は幸福研究所なる怪しいものを信じるような人間ではなかったが、それでも幸福というキーワードはアール氏の興味を引くには十分だった。
「確かに私は幸福を感じていないし、幸福を渇望している。しかし、一体どんな装置なんだね?」
「装置自体はそんなに難しいものではありません」
そう言ってスーツの男は手に持っていたアタッシュケースから吸盤のついた装置を取り出した。
「この吸盤を頭に装着するだけです。そしてこのコントローラの電源をオンにすると、この吸盤から、人間が幸福を感じる際に発せられる電気信号のようなものが放出されます。脳に直接その電気信号を送り込むことによって、何をしていなくても幸福を感じられるという装置です」
「そんな素晴らしい装置があるのかね。で、一体私からいくらのお金を取ろうっていうんだい?」
「この装置は無料です。実はまだ完成したばかりで、使ってくれるモニターを探しているんです」
「ほう、しかしこれは安全なのかい?」
「安全面に関しましては全く問題がありません」
そう言って男はアタッシュケースから30ページほどの資料を取り出した。
「この資料に安全面についての検証結果などが載っています。もし心配でしたら全て読んでみてください」
「ほう。しかし、私にはそんな専門的なものは読んでも分からん。しかし、面白そうだ。一度使ってみよう」
そう言ってアール氏はその装置を受け取った。

アール氏は家に帰り、普段と同じようにご飯を食べ、お風呂に入った。普段であればそのまま寝室に向かうのだが、装置のことが気になり、奥さんには仕事が残っているからと嘘をつき書斎に入った。
「さて、使ってみるとするか」
アール氏は吸盤を頭のてっぺんに取り付け、渡されたコントローラーの電源をオンにした。ピっという電子音が鳴った。

アール氏はこれまでに感じたことのない幸福感に包まれた。それは、革命的だった。こんなに幸せなことなんてあるのか、これは夢ではないのかと自分の頬をつねってみたが、夢ではない。徐々に思考能力もなくなっていき、ただひたすらに幸せを感じた。生きていていよかった。このために生きてきたのだ、とさえ感じられた。
と、急に電源が切れた。時計を見ると、装置をつけてから既に30分が経過していた。そんなに時間が経っていたのかと驚いたが、もう一度その感覚を味わいたくてアール氏は再び電源をオンにした。しかし、吸盤からは何も感じられない。先ほどは電源をオンにすると同時にピッという電子音が鳴ったが、その音すら鳴らなくなってしまった。壊れてしまったのかもしれない。
アール氏はその装置を早く使いたかったが、壊れてしまってはしょうがないので、その日はその装置をカバンにしまって眠ることにした。

次の日の夜、アール氏は前日と同じ場所で再びスーツを着た男に声をかけられた。
「いかがでしたか?」
「君は天才か!この装置は本当に凄い。生まれてこのかた味わったことのない種類の幸福感を味わえた。ただ、どうやら故障してしまったようじゃ」
「幸福感を味わえたみたいで何よりです。そしてそれは故障ではありません。試作品は30分連続で使うと機能が停止するようになっているのです。もし今後も使いたいようであれば、本製品を買っていただくことになります」
「商売が上手じゃな。しかし、こんな装置であればいくらでも出すぞ。一体いくらなんだね?」
「使い放題のものでしたら、1ヶ月あたり50万円です」
「なかなかの値段じゃな。もう少し安くはならんのかね?」
「申し訳ございません。値段は変えることはできません。ただいつでも解約することができます。」
「うぬ、では仕方ない。ではとりあえず1ヶ月使ってみるとするよ」
そうしてアール氏はお金をおろし、男に50万円を手渡した。家に帰り、再び書斎にこもり装置の電源をオンにした。

それからというもの、アール氏は時間があれば書斎にこもり、その装置を使った。その装置の使用料は安くはないが、大手企業の代表取締役の給料を考えれば全く問題なく払うことができた。
しかし、家族と過ごす時間は全くなくなり、常に部屋にこもってその装置を使うようになった。奥さんはそんなアール氏に愛想を尽かし、子供が成人したこともあってか、アール氏をおいて家を出て行った。それでもアール氏は幸せだった。その装置さえあればアール氏は幸福感を感じられるのだから。

その後、アール氏は死ぬまでその装置を使い続けたらしい。
側から見れば、妻にも逃げられ、ただ部屋にこもっているだけのアール氏は、不幸せに思えるだろう。しかしアール氏にとっては幸せな生涯だったに違いない。その装置の発する信号により、死ぬまで幸福感を感じられたのだから。だが、果たしてこのような幸福は本物と言えるのであろうか。虚しくはないのであろうか。本当のところは誰も知りえない。

幸福の形は人それぞれ違うという皮肉なお話で、これが全人類の手に渡ったらどうなるんだろうなぁと想像して少しゾッとしてしまいました。