『二つの椅子』

 ぼくの机には椅子が二つある。一つはこの秋、ネット通販で六千二百円で買ったやつだ。これは、ぼく用。
 伸びをするとケンコウコツの重みを背のクッションが吸い込み、骨がびきびき鳴って気持ちいい。半年が過ぎようとし、新品のよそ行きの匂いは消えて、すっかり馴染んでいる。
 もう一つの椅子は、アメショーのアメさん用。こちらの方が暖房に近く、温風を正面から受けている。
 五年くらい使っているぼくの椅子だった。これからも使っていこうと思っていた。

 それが去年の秋の終わり、要するに冬の準備期間に、アメさんはぼくの椅子をすっかり占拠して丸まってしまったのだ。
 もちろん、追い払った。
 その頃、ぼくは大長編の構想があって、大学のハズレ講義を休み、一週間、パソコンを睨みっぱなしでキーボードを叩き続けていた。この精魂込めたジュブナイルを、自身の代表作、といってもサークルの仲間内の数人で見せっこするだけだが、にしようと思っていた。細マユゲのイッシーは、靴の片っぽだけを集める幽霊の長編、なんと百五十ページもある、を夏休み一杯も使って書きあげ、僕を驚がくさせた。塩田もびっくりしていた。それに負けじと、塩田と僕の二人でそれぞれ代表作というものを、将来に小説家となった時に編集者になにげなく差し出して。「実はこんなの書いてたんだよねー、ぼくも若くてさ、勢いでさ、でも気に入ってるんだ、どうだった、えっ、いやそんな、ほめ殺しだよ、照れちゃうよぉ」。なんて敏腕編集長が目を丸くして駆けつけ、そのまま出版されるような、そんな傑作を創ろうとしたのだ。
 がりがり、がりがり、ウルサイ。その大長編を執筆しているさなか、アメさんがぼくの椅子の背もたれまで精一杯に伸びをして、爪でがじがじっている。
 僕の大長編は主人公とヒロインが街を見渡せる丘に一緒に座りながらうふふとふふふと、互いに手をほんのちょっと近づけて、ふれあうかふれあうまいか、いやまだはやいよ、やめとこう、そういえばゆうひがきれいだね、なんて所まで差しかかっていたのだが、その背中への圧に中断しなければならなかった。
「こらっ」
 と頭をポカンと叩こうとしたが、やっぱりなでなでに近いぽんぽんになってしまった。アメさんはふてくされた顔をして、茶の木目の床にうつ伏せている。ふてぶてしい。椅子の車輪でひかれたらどうなるかわかっているんだろうか。アメさんは両足をだらりと垂らしている。しっぽまでだらりとしている。そのくせ、妙に鋭い眼でこちらを見つめている。椅子の車輪でひきっこないことをアメさんは知っている。
「危ないよ、危ないよ」
 椅子から降りて、その椅子を遠ざけて、立ちながら中腰で足のつま先でちょちょいと突っついて、追い払おうとする。するとアメさんは素早く立ち上がって、こちらに向かって行き、ぼくの足を頭ですりすりして、そのままママならぬことにまた椅子に乗った。
 かくして椅子はアメさんのものとなり、僕の大長編はとん挫して、レポートを書く時間が減った為か、それともそれまでサボっていたのが響いたのか、その秋と冬の、後期の講義の単位をいくつか落とし、そして季節は過ぎていった。

 貧乏学生だよってユニクロを着ているが、バイトもせずに暮らしていけるのは、実家からの大学通いだからだろう。わが家も金持ちではないけれども、やっぱ庭付きってのは普通とは違うんだろう。電車で通学一時間に文句言いながら、甘えてしまっている。以前は離れることも考えていたが、アメさんが来てからそれはすっかり無くなってしまった。そんなぼくだから、新しくもう一つ椅子を買うのはためらわなかった。また代表作が遠のき、単位を落として留年するかも、と思えば、安い買い物だ。
 しかし秋から冬へ、涼になり寒になりかけた頃、アメさんが椅子の上に、よりにもよって新品の方に乗っかって来たのには、本当に本当に本当にイライラした。いらっとまでした。思わずきつく背中をワシワシしたが、アメさんは気持ちよく喉を鳴らしている。ゴロゴロゴロゴロ。ではなく。ゴゥゴゥゴゥゴゥ。
 なんだろう、市民革命だろうか、名誉革命だろうか、革命でも起こしたい気分になったが、そこはこらえた。そして現象と原因を分析した。丸三日レポートも手に付かず分析した。猫学を履修するような勢いで。その結果、どうも暖房があたるからアメさんはこの椅子にいるのだと気づき、本棚を動かしデスクを動かし、非常に疲れた、そして椅子を動かして空いたスペースに古株の椅子を配置。するとするする。さてさてアメさんはそこに落ち着いた。

 あれだけ熱のあった大長編も時機を逃すと随分とひんやりしたものになり、見返すと変な笑いが出てしまうような、テレビの芸人のお盆芸でアレがちらっと見えるような、そんな夢の終わりのものだった。それをすっかりと廃棄して、今は短編を幾つか書いている。五ページから六ページのもので、時に頑張ってようやく十を超えるのだけど。イッシーも美紀ちゃんも、良くなったよ、とか、らしいじゃん、とか言ってくれる。そりゃたまには、何これ、なんてのもあるけど。たまには。本当にたまに。三つに一つくらい。
 と何だか顔がひきひきして、それでキーボード叩きが止まってしまった。横を見る。腹這いに冬の猫らしく丸まっているアメさん。眠っていると思ったら、薄眼が開いている。こちらに気付くとそれがパチリとし、ゴゥゴゥ言う。
「わかったよ」
 背中を撫でる。アメリカンショートヘアだから毛は短いが、指をジュウタンみたいに柔らかく包んで、滑っていく。ゴゥゴゥ。声が大きくなる。するとその口で、左の親指と人差し指の間に噛みついてきた。あまがみなので、手を引くとさっと離れる。アメさんはプロレスのように寝ころびながら、前足をネコパンチしてきて、噛みつきが混じる。手をアメさんにひらひらすると、爪ががしりとセーターの手首の袖にひっかかる。こう、糸と糸の間に。シャキンと伸びた爪が。それが折れやしないか、そんなことないとわかっているけれど、もしもと、手の動きが鈍る。するとアメさんは小指の下の外側に、会心の一撃と、歯を当てる。興奮が高まって、あまがみは少し痛いものになる。噛むところがロックすると、それを軸にがしがしと猫キックまでしてくる。
「いたいよ、いたただよ」
 なんていつものように繰り返し。うん、もう原稿そっちのけでアメさんとたわむれることにする。

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