『Rainy』

「...聞いてくれますか、彼女の事」
「...はい」
 ノイズの乗ったレコードのクラシックと、微かに交ざり込む静かな雨声。目の前に構えるカウンターの向こうで、カップに滴るオブシディアンを見つめていたマスターは、僕の言葉ににっこりと微笑んだ。
「...彼女との思い出は、いつまで経っても綺麗なままなんですよ。出会ったのも、今日みたいな雨の日でした。いつもこのカフェテリアのこの席で、2人でコーヒーを頼んで...。ブラックが飲めなかった彼女は、いつも砂糖とミルクを欠かしませんでした。...だからなんですかね。ここて過ごした記憶が、思い返せば甘くて苦いのは」
 左の空席を一瞥して、僕は自嘲するように唇を歪めた。溢れては溶け出して行く彼女との日々は、彼女が息を引き取ったその瞬間まで、全てが幸せで。
 そんな僕に何も言わず、マスターは窓の外...いや、窓辺に生けられた豪勢な白百合に視線を移す。...カサブランカ。大人しかった彼女が、僕に「好き」と教えてくれた唯一のもの。

「この店も、一月後には閉店なんですよ」
「ッ...そう、なんですか」
「はい。ここのマスターも私で3代目なのですが、引き継ぐ人間もいないもので。近いうちに店を畳みます」
「...」

「...マスター、お代わり1つ」
「はい」

 湯気の隔てるカウンターの向こうで、マスターの老眼鏡がゆらりと揺らぐ。花粉嚢の切り取られた純白の花が、降りしきる雨から背くようにこちらを見つめていた。

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