『かたつむり』

 誰かに何かを話す言葉が、本当はいくつもないことを知っている。

「帰りに紫陽花を見に行こうよ、一番好きな花なんだよ」

 然り気無く言ってみたけど「あ、それ知ってる」と笑ってくれたことに驚いた。

「なんで好きかは知らないけどね」

 確かにそれは私もそうで、

「…青いのもピンクのも好き。色が変わるんだよ。酸性だと青でアルカリ性だとピンクなんだってさ」
「へー!そうなんだ、なんで?」
「わからないけどリトマス試験紙みたいなやつかな?」
「あ、なるほどね。へぇ面白いねぇ」

 隣の君はにこりと笑って「じゃぁ見に行こうか」と言う。「傘も持ってきたし」だなんて続けるのだから、いつも気後れしてしまう。

「いまから?」
「丁度帰りだし。近くにありそうでしょ」

 梅雨の自然なダルさはそうやって然り気無く居心地を悪くする。いや、悪いのではない。当たり前でこそばゆい。湿った下校バスの中の濃度と一緒。

 そわそわしてしまう、この風景が変わらないことに。
 ありがとう、も気恥ずかしくて「うん」としか言えない処理はむずがゆい。

 当たり前の終点で、当たり前の街の中、道端にある紫陽花は時にピンクで時に青くて。

「これはきっと酸性なんだね」
「…綺麗だね?」
「こっちは変わりかけているね」
「そうなんだね」

 少しだけの雨はたまに晴れて切れ間に明るい。当たり前に過ぎていくはずの景色は透過して灰色に見えるから。
 いつかそれを言わなければならないのに。

 「この紫陽花はピンクかなぁ、…ピンクだね」と優しい君に思い出すんだ。世界に色はたくさんあるけれど、今日の空が灰色か白かという小さなことを。

「奥がちょっと青いね」
「おもしろいね」

 こんな不安定をいつでも普通に見て過ぎていた筈で。当たり前は少し食い違っているけれど、ねぇそろそろ疲れちゃったな、君は何色に見えるんだい、と聞けずにいる。

 だらだらした梅雨がいつか終われば新しい季節が始まって、過ごした日々が死んでいくのは当たり前の毎日で。

「そろそろ梅雨も終わってしまうね」

 と何事もなく紫陽花から離れた君の姿が一年後にはなくなってしまっていたらと、雨が強くなる不安定な天気は今日も変わらないけれど、何物でもないその風景を手放したくないとは、勝手なことだとわかっているから。

「君の好きな花は何?」

 手を取って、笑い合って。

「あんまり花を知らないから、また見に行こうね」

 うん、
 あのね。それがいつか君の前から当たり前に消えてしまう日があったとしたらと、勝手に泣きそうな日にいつも考えてしまうんだよ。
 そしたら最後はどうしてみたい?

 灰色か白かはわからないけれど、「ひまわりはどうかな」としか聞けないでいる。君とも見える花が良いでしょうと、勝手に考えて。

 雨の日のコンクリートにカタツムリがいた。ゆっくり止まって歩く時を忘れているようで。早く葉っぱに隠れてね、うっかり水に落ちないように。

 さぁ走ろうかと急く雨に、帰路でじゃあねと言えない自分にまた今日も、傘を差した。

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