『誘惑』

「谷口~~大丈夫かー??飲みすぎだろ~」
赤提灯がぶら下がる居酒屋で、上司が声をかけてくる。きっと壁にもたれかかっているのだろう。
会社の歓迎会で泥酔するなんて、などと思えるわたしは、意外にも冷静だ。
「玲太、こいつどうにかしてやってくれ。このままじゃあぶねえだろ」

“玲太”

この言葉が聞こえた瞬間、わたしは酔いを一層強めることにした。

「わかりました、タクシー使って送ります。すみませんがお先します。」
そう言うと、玲太さんはわたしの腕を自分の肩にかけ、外に出た。

もうすぐ、あと数分。我慢しろ、わたし。
そう言い聞かせながら、タクシーが捕まるのを待った。少しアルコールの匂いがする、玲太さんの体温を感じながら。

「タクシー来たよ。乗れる?そう、少しかがんで…」
わたしを優しく後部座席に乗せると、一瞬間があってから玲太さんは隣に座った。
「ごめんね、住所とか伝えられなそうだから。家、阿佐ヶ谷駅の近くだったよね?運転手さん、その辺りまでお願いします」
はいよ と半ばやる気のない声と同時に走り出したのを感じると、わたしは倒れていた身体をスッと元に戻した。

もういいかな。

「大丈夫?無理しないで、着くまで横になってて。近くになったら起こすよ」

「…玲太さん。わたし、酔っぱらってないですよ」
「えっ…谷口さん?」

玲太さんは心底驚いた顔をしている。そんな表情すら愛しくて仕方がなかった。
「ごめんなさい、怒らないでください。運転手さん、繁華街までお願いします」
「谷口さん、まだ飲むの?ていうか、なに、どういうこと?」
「玲太さん」
そう言いながら、彼の瞳を見つめた。酔っぱらってはいないけれど、多少アルコールが入っているのでさぞかし潤んでいることだろう。
そして彼の右手の小指に、私は左手を這わせた。

「おねがい、」

玲太さんはわたしの3つ歳上だ。恋愛経験がないわけではない。この状況の意図することは、きっと既に察しているだろう。
「待って、谷口さん。やっぱり酔ってるでしょ。知ってると思うけど、俺結婚してるんだよ」
「わかってます。きれいな奥さんがいることも、玲太さんがぞっこんでご結婚されたことも。」
この言葉で少し顔が赤くなるところも、堪らなく可愛い。這わせた指に、少し力を込めた。

「わたしに、触れてくれるだけでいいの。それ以上はなにも望みません。一度でいい、ほんの、一瞬でいいんです。無理を言ってるのはわかってます。これで、もう忘れますから…」
またもや瞳を見つめながらわたしはそう口にした。忘れるなんて嘘だけれど、玲太さんみたいな人はこうでもしないと来てくれないだろうから。
「谷…口…さん…」
アルコールは判断力を低下させる。その効力にこんなにも期待と感謝をしたことはあったかな。
「運転手さん、ここで。」
わたしは素早く支払いを済ますと、彼を追い出すようにして降り、彼の手を引いた。

気が変わらないうちに、はやく、はやく。
ここで畳み掛けなければ、すべて水の泡になってしまう。
さまざまな愛が交錯する場所に、私は彼を引きずり込む。

玲太さんは入るときもキョロキョロしていた。
それはそうよね。見られたら終わりだものね。
小心者なところも、なかなか好きよ。

受付をし、エレベーターに乗った。
さぁ、第2幕をはじめなきゃ。

「谷口さん…やっぱり…」
なにかをいいかけた彼の首に、わたしは腕を回した。その後の言葉なんて、聞きたくもないし意味もない。
「ねぇ…玲太さんをちょうだい」

ここで好きだの愛してるだのと口にしてはいけない。そんな重い台詞を言えば、男は猛ダッシュで離れていく。

「玲太さんが欲しいの。玲太さんでいっぱいにして。」
上目遣いで彼を見つめる。彼の瞳は揺らぎ、諦めにも似たような、そんな色になった。

「俺…谷口さんが思ってるような男じゃないよ」
「美咲。美咲って呼んで。」
「…」
「玲太さんがどんな人間でも、私は今、あなたから離れたくないの」

そう言ったと同時に、エレベーターの扉が開く。
今度は彼がわたしの手を引く。
この乱暴さは、スイッチが入ったんだろう。
男の人がただの獣と化す瞬間以上に好きなものはない。

にやつく口角をおさえる。
あぁ、あんなに戸惑っていても、部屋の番号はわかっているんだな。なんて愚かなんだろう。

部屋のドアを開けると、すかさず彼は鍵をして
私を壁に押し付けた。

「…美咲のせいだよ。俺はなにも悪くない」
「そう、全部わたしのせい。だから、玲太さんの好きにしてね」
「美咲、好きだよ」

大きな過ちと引き換えに、薄っぺらい愛の言葉が響く部屋で
夢が覚めるのはせめてお昼頃がいいな、と思いながら、獣となった愛する彼をそっとなぞった。

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