「、すまん」
「あなたったら……!」
さぁ、今から寝ようと思う夜も更けている頃。
盃(さかずき)はその日何気なく彼女の部屋を開けた。最近仕事の忙しさにかまけてはいたし、20年以上も連れ添った妻のどこか肌恋しさもあって久方振りにその戸開ければ、ちょうどいいタイミングで錫(すず)が寝巻きに着替える途中で下着姿だった。
若い頃程の張りはないが、その色白さと元々の痩せ気味な身体が幾分かふくよかな体つきになった様は、彼を昂らせるには十分な材料で。
ここでついでに誘えば良かったのに、予想以上に錫が嫌な顔をしていて反射的に盃は扉を閉めた。
これではただの助平で、妻に誤解を与えたまま本来の目的を達成出来なさそうで彼は苦虫を潰した顔に変わる。というか、今更裸を恥ずかしがる仲でもないし、そこまで嫌な顔をしなくても良いではないかと彼にも言い分があって。
身形を整えた錫がリビングに戻ってくれば案の定彼女は不機嫌な顔をして盃に文句を垂れた。
この硬骨漢に物申せる女性など、世界中で彼女しかいないに違いない。
「私も、もういい歳ですけれど、見られたくないものだってあります。不躾に部屋に入って来ないでください」
「すまんと言うとる。……フン、たかだか四十路の弛んだモンなんぞ見たところで目の保養になるもんかィ」
「!……」
売り言葉に買い言葉。
もし彼女が可愛く助平だと言ったなら盃もそこまでは言わなかっただろう。だが明らかに錫は真剣に嫌な顔をしていて、それがまるで父親に裸を見られた娘のような嫌悪感丸出しだった。
だから、どうしても素直にはなれなかった。
むしろ年甲斐もなく今すぐ抱き締めたかったぐらいなのに、二人の溝は深まるばかり。彼女は少なからずショックを受けたようで、若干涙目を隠せずに捨てゼリフを残す。
「悪かったですね。お目汚ししましたわ、では今後一切この弛んだ体に触らないでくださいね!あなた」
「おい……!」
いや、そういうつもりじゃなかったんだが。
女と言うのは全く面倒な生き物だ。
彼はつくづく思う。そして、素直に綺麗だったとか歳を取っても素敵だとか、歯の浮いた一言すら全く言えない己も大概面倒な生き物だと思った。
昔から自分が素直に褒めたり好意ある言葉を一切言わないのは長年連れ添った妻なら分かってるはずだろう?と愚痴りたくもなるが、だからと言って貶された言葉を受け入れるのは話が違う。
錫の反応は至極全うだった。
ただ自分が素直になれなかっただけ。自分が圧倒的に悪い。
彼は惜しくも、片手を顔全体に当てて、溜め息を吐きながら空振りの夜を過ごした。
ーーーそれからと言うもの。
流石自分の妻と言うべきか、彼女は最低限の家事はしつつもそれ以外は徹底的に己を避け顔も合わせぬ日々が続く。
そうして初めて。今まで、夫のこの激務の中然り気無く夜食を作ってくれたり夜中でも仮眠から起こしてくれたりなど、彼女の内助の功を感じずにはいられなかった。
いい加減、此方から謝らねばと盃はやっとのこと時間を作って晩酌に誘う。彼女はあまり乗り気ではなかったが、“すぐ終わる”と言えば渋々と夫に従った。
縁側では、いつもよりも何とも気不味い雰囲気が漂ってはいたが二人は昔から変わらず各々の定位置に座る。
「錫」
「はい?」
「酒注げ」
「どうぞ、これくらいで?」
手慣れた手つきでしなやかに徳利を傾ける様、俯くために下がるよくみれば長い睫毛、若い頃にはなかった顔の僅かな皺や染み。
いくら10以上歳が離れているとはいえ、彼女も自分と同じく確実に歳は取っているのだった。
いつからか、当たり前のように共に寝ていたのが離れ、美味いと言っていた料理にもそれ以上を求めて段々と文句を言い、生活の中で家族として当たり前の存在していた。
だからこそ愛おしいという気持ちが、どうか完全に風化してしまう前に。
盃は必ずここで、やり直さねばと心に誓う。
「私、明日も朝から仕事がありますので。お先に失礼しますね」
「ちょう、待てや」
明日仕事がある。
確かにそう。この歳になっても仕事を続ける彼女にとっても休みなどない立場である自分も、そろそろ酒はお開きにせねばならない。
だが、生憎。酒は呑むふりして彼は一滴も体にアルコールを入れていなかった。晩酌などただの口実に過ぎぬ。
きっと自分との時間をはぐらかすために尤もらしい理由を突きつけるだろうと思ったから。みっともないが、上手く口に出来ぬ代わりにその愛情をぶつけるが如く、彼女の白い腕を引いて後ろから抱き締めた。
勿論、錫の抵抗は避けられなかったが。
「ちょっと!何なんです!?あなたっ。触らないで!」
「ええから、話ぐらい聞け……!」
腕の中で暴れる彼女を押さえつけながらも、必死に彼は話を聞けと懇願する。最初は頑なだった錫も、ほどほどして夫の真剣な声色に大人しくするしかなかった。
しばらくの沈黙が続く。
抱き締める力が次第に強くなっていて、流石の錫も馬鹿力の彼の圧力が人並みではないから、身体を解放させようとまた暴れ始めそうになったその時。
沈黙を先に破ったのは、盃だった。
「すまんかった」
「!」
たった一言。
一般なら、何が?と問い質したいところだが、彼女にとってはそれだけで充分だった。あの厳格な盃が、謝罪の言葉を述べるとは。
相当覚悟がいったでしょうねと、若干微笑みながら仕方なく「もう、いいですよ」と錫が言うと、途端になし崩れるようにその巨漢に押し倒される。
確かめるように妻の身体を辿る彼の手が、心底喜んでいるようで。
思わず、可愛い人。
と溢しそうになったのを堪えて。自分を欲す赤々とした目を見たのはいつぶりだろうかと彼女は思う。
「……ええか?」
「あ、あなた……」
「なんだ?」
そう言えばあの時。
あられもない姿を咄嗟に見られたのが嫌だったのは、少し自分の身体に自信がなかったからでもあった。
若い頃の張りもなければ、少し太った自分の体を彼が見たら幻滅するんじゃないかって。
だけれども、それは杞憂に終わった。そうでなければ、彼がここでわざわざ謝って押し倒す必要もないからである。
「私もごめんなさい」
すれ違い。
この短編小説にはまだコメントがありません。
ぜひ一番最初のコメントを残しましょう。