『感情屋』

 最近、この近くにも感情屋ができた。普段は通らない、車がよく通る交差点の一角に構えている。張り出されたアルバイトの求人票の時給が、少し前のIT企業のように高いところを見ると、感情屋の経済事情は豊かなのだろうと邪推する。
 一口に感情屋と言っても様々な店舗がある。店の中で短時間味わうだけのライブハウスのような店や、温泉施設に併設された長時間愉しめる店舗もある。
 新しくできたこの感情屋は、テイクアウトだけのタイプだった。まるで海の家にように、大雑把な木の板に筆文字で太陽と書かれた看板が掲げられている。
 私には予定がなかった。どうしても会社に行けなくなった私に、精神病院が"うつ病"だと告げたからだ。その帰りに、予定があるはずもない。
 医者に治せない病気も、感情を買えば治るだろうか。そんな期待を込めて、入ってみることにした。
 自動ドアをくぐると、店内はさっぱりしていた。新しい店は新鮮な雰囲気があった。古風な持ち帰りだけの弁当屋や、都会の駅にあるドリンクだけを売っているバー。ケーキ屋の店先のようでもあった。平日だったためか、並んでいる人は一人もいなかった。
 私はスーツで入ってしまったことに少し恥ずかしさを覚えて、それを麻痺させるように、店員らしき男に話しかけた。
「すいません、こういった店は初めてなので、どういうものがおすすめなのか、ご教授願えますか?」
 ぱっと見いかつい風の男はニカっと笑って、ピアスを揺らして向き直り、優しく応じてくれた。
 感情とは、振れ幅である。喜び、怒り、悲しみ、楽しみ。それぞれに極、プラスとマイナスがあり、特定の組み合わせで嫉妬や焦燥などを演出することができる。
 男はゆっくり時間をかけて、私にそれを教えてくれた。
「そうですね、俺はあなたには、悲しみをプラスにすることを勧めたい」
 私は憤った。馬鹿にされているように感じたからだ。何も知らない私には、感情の中で一番辛いものを勧めるのかと、男を疑った。
「いやあ、すみません、馬鹿にしようって訳じゃないんです。ただ、止まない雨はない、と言いますか、あなたには、心の底から悲しむ思いをして頂けたら、何か晴れるんじゃないかと思いまして」
 私は怒りを鎮めようと、少しの間押し黙った。そうして少しして、男を優しく捉えることに成功した。
 この男は、一番振れ幅が大きいものを感じさせたいだけだ。感情を4つに分割して考えると単純になってしまうが、振れ幅で考えると、私が普段感じにくいもので、一番感情が揺れ動くのは悲しみだと、そう言っているのだろう。
 感情についてここまで細かく考えたことがなかった私は、久しぶりに楽しいと感じた。私は口を開かずにはいられなくなった。
「あなたはプロフェッショナルですね。私には、悲しみが必要なようです」
「いえいえ。感情はあなた自身だけのものです。相当、難しい顔をされてましたから。では、こちらが"悲しみ"の錠剤です。この場で4錠全て飲んでください。少ししたら効きます。それから、帰ったら悲しみをより強く味わっていただくために、悲しい映画を観てください。それで最大限、効果が引き出されますから」
 私は錠剤を受け取り、代金を支払ったあと、その場で水をもらって飲み込んだ。
 私は今日一日、悲しみに暮れることができる。
「ありがとう。また機会があったとき、感情を買いに来ます」
「喜んでいただけたようで、何よりです。お待ちしております」
 自動ドアは無機質に閉まった。
 言われた通り、帰りがけにレンタルビデオ屋に寄り、普段は借りないような、痛ましい戦争を語る映画を借り、家に帰ってから存分に悲しんだ。
 感情が狭まる精神病を患っていた私にとって、それは新鮮で、立ち直るきっかけとなる体験になった。
 まさしく、あの店は私にとって暖かい陽の光、太陽となったのだった。
 後に、「太陽」は一斉摘発された感情屋のリストに載った。
 錠剤の中身は小麦粉で、プラセボ効果によって、効果のないものを売る悪徳商売をしていたとされた。

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