『藍と深海』

『それ』の姿はくらげに似ていた。

その日の月は冷たく光っていた。星がちかちか瞬き、水面できらめいた。
僕は寝付けなくて海辺を散歩していた。海は危ないから深夜に歩くなと友人に聞かされたことがあったが、そのときは気にしなかった。
夏ももうすぐ終わるのに、空気はじっとりと生ぬるかった。ゆっくりと砂浜を歩いていると、海の上に不思議なものをみた。
大きな、輪郭のはっきりしない何か。
『それ』はぼんやりと佇み、僕を見ていた。肌は白く発光し、瞳は藍色に染まっていた。今の海と同じ、深い夜の色だ。
目が合った。
脳裏を誰かの言葉がかすめた。
「…の海には近づいてはいけない」

僕は『それ』に向かって歩き出していた。足裏の砂の感触が薄れ、足首に水が重たくまとわりついた。それでも冷たく心地よかった。白く光る『それ』が不規則に揺り動いた。藍色に染まる瞳と海を儚く美しいと思った。腕を伸ばせば届くかという距離で、『それ』のからだが大きくこちらへ波打った。

「とまれ」
肩を強く掴まれた。驚いて振り返ると厳しい顔をした友人が立っていた。彼は急いで僕を追いかけていたのだろうか。大粒の汗を流していた。
僕はそこで、自分が腰まで海に浸かっていることに気づいた。
「お前は行くな」
彼は強い力で僕を砂浜に押し戻した。あれだけ美しく見えていた海が途端に途方もなく暗く見えて怖くなった。彼は僕が海から離れて帰るのを見送った。くらげのような発光体は知らない内に消えていた。

次の日の朝、海岸に来てみてもあの生物じみた何かはいなかった。代わりに海にはくらげが浮かんでいた。8月の下旬。僕は昨夜家に帰ってから、友人が去年亡くなっていたことを思い出した。

コメントありがとうございます。 お言葉とても嬉しいです。

無駄がない上に、綺麗な情景が目に浮かぶ