『紅い泡沫』

 白い掌に収まったまろい茜色。いつか見た夕日を閉じ込めたようなその果実は、真っ白な世界の彼の手の中でてらりと輝いていて。

「知恵の実…だね」
 手中の赤を見つめていた彼は、そんな呟きと共に、ふと自嘲するような小さな笑みを零した。
「アダムとイブが蛇に唆されて、エデンの園を追放される元凶になった果物。…君も、旧約聖書は知っているだろう?」
「…はい。読んだ事はありますよ」
 …また、何かに感化されたのかな。真っ白い部屋をよく見れば、彼の枕元の大きな籠…その隣に、『旧約聖書』という題の文庫本が置いてあるし。
「…この実を食べたら、僕の記憶も戻るんだろうか」
「そんな訳無いでしょう」
「いや、あるかもしれないよ。アダムとイブは永遠の享楽と引き換えに、この実から知恵を得たからね」
 馬鹿な事言わないで下さい、とその手から果実を取り上げれば、彼は「…そうだな」と少しだけその視線を下げてみせる。
 …ねえ。何で貴方はそんなに悲しそうに笑うの。…やめてよ。私は事故に遭う前よりも、今の貴方の方がずっと好きなんだから。
「しかし…君は、僕の恋人だったんだろう?それなら、忘れたままなんて…尚更申し訳ない」
「…謝らないで下さい。それに…無理は禁物ですよ。急ぐ必要なんて無いんですから、ゆっくり思い出して行きましょう?」
 …思い出さない方が幸せなのに。全ての記憶を取り戻したら。私の心に焼き付いた恐怖を知ってしまったら。…きっと、今の貴方なら、壊れそうなほどに泣いて嘆くでしょうね。
「…有難う。こんなに優しい人が恋人だなんて、きっと僕は幸せだったんだな」
 …今だけでも、この笑顔に『嘘』が無いのなら、私は…。
 哀れな恋人の頭を慈しむように撫でながら、痛い痛いと青黒く脈打つ忌まわしい記憶をそっと隠した。

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