『時計』

 白い光が目の前を覆い尽くしていた。それがやけに不愉快で、彼は自分の腕で目の前を遮った。
 けれども、その光に違和感を覚えて彼はパッと目を開いた。慌ててスマホを確認する。

「やっべ……寝坊した」

 デジタル時計は8:30を示していた。それは彼にとって、絶望的な数字だった。駅前の広場までどれだけ急いでも十分はかかるのだ。
 待ち合わせ時間が9:00である事を思えば、そう悲観する時刻ではないのだが、それは友人との待ち合わせだった場合だ。

「せっかくのデートだってのに……何してんだよ、俺」

 今日は待ちに待った『初デート』だ。当然格好にも気を使うため、いつもよりも用意に時間が欲しいのだ。
 そして何よりも、彼は彼女よりも先に着いて待っているという事がしたかった。
 先に着いたからといって、何かが変わるというわけでもない。けれども、彼の中にあるちっぽけなプライドがそれを許さなかった。
 ご飯をかっ込んで、急いで服を着替え、歯磨きをする。

「あれ? あんた早いわね。まだ8:30よ?」

 休日だというのに、ドタバタと煩い音が響き、目を覚ました母がリビングの時計を見てうんざりした。

「その、時計壊れてんだって! じゃ、いってきまーす」

 母の方には目も向けず、返事の勢いだけで家を飛び出した。
 鞄を肩にかけて、それが落ちないよう右手で押さえながら、彼は走った。道中の信号に何度か捕まり、その都度、彼はスマホを確認した。

「なんとか十分前には着けるかな」

 駅に近づくにつれて、人が多くなる。
 早足で歩きながら広場に向かうと、努力報われず、彼女が先に到着していた。
 彼女もこちらに気付いて、手を振った。
 その姿に先に着かれた悲しさを振り切って、彼も手を振り返した。

「ごめん。待った?」
「ううん。全然待ってないよ? というか、お互い早く来ちゃったね!」

 彼は首を傾げて、時間を確認した。

「そう? 五分前ならニアピンじゃない?」
「ん? 五分前? 今8:40分だよ」

 彼女は腕時計を確認すると、怪訝な顔をして彼を見つめ返した。

「いやいや、今8:55分だよ」
「なんだ。私の時計電池切れか」

 彼はスマホ画面を彼女に見せると、彼女は苦笑いして時計をいじり出した。
 ひと段落ついて、二人は駅のホームに向かった。

「実はさ、俺ん家の時計も壊れててさ。今朝、本当に焦ったよ」
「えー、そうなの? 時計が壊れやすい日とかあるのかな?」
「なんだそれ。そんな日あったら、時計売れないだろ。いや、逆に売れるのかな?」
「ふふっ。なんだかパソコンみたいだね」

 二人で笑いながら歩いていると、なんだかデートっていう感じがして、彼はテンションが上がってきた。
 その時だ、駅のホームから怒鳴り声が聞こえてきた。どうやら、電車の時間がずれているようだ。
 それを合図にざわめきが広がり、時間が違うだの、時計が壊れただの、人々の嘆きが聞こえてきた。

「もしかしたら、本当にあるのかもね」
「それな。明日は時計屋さんが忙しそうだ」

ーー緊急速報です。ただ今、世界的な時間のズレが生じているようです。ただ今、8:50分です。スマホをお使いの方は三十分繰り下げてお考え下さい。現在、原因を調査中で……

唐突にアナウンスが流れて、駅のホームは凍りついた。

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