『金木犀』

 平時であればゆっくり歩みたい金木犀の道も今日ばかりは駆け抜ける他になかった。季節は秋。美しい花々を嫌うように降る雨は一層激しさを増すばかりだ。今では日課と呼んでも差し支えないこの図書館通いも今日ばかりは休んでしまおうかと思う程度には。
 通い始めてもう3週は経っただろうか?毎週月水金は欠かさずに近所の市立図書館へと足を運ぶ。着けば、適当な本を手に取り、彼女の指定席、窓際左から3番目の席のその1つ隣に腰を下ろす。本は何でも良かった。この席に、この時間、居るということが大事なことなのだから。今日に限っては少しルーチンが違うが。一先ずは自分の席へと向かい、カバンからタオルを取り出す。濡れ鼠と化した自分の体を丹念に拭き上げると空白の指定席が目に入り、笑みを零す。そのまま、彼女の指定席を尻目に今日読む本を手っ取り早く見つけ、腰を下ろした。
 彼女は数日前に亡くなった。いや、正確に言えば僕が殺した。名前すら知らなかったが、そんな「図書館の君」がもう二度とこの席に座ることはないという事実と、その真実を知る者は僕以外にいない。ああ、何て幸運で幸福なことだろう。零れる笑みを抑えられない。彼女の死に際の気高さも、読書中に浮かべていた薄い笑みも、何もかもを覚えている。その全てがフラッシュバックするようで僕はいつもその陶酔感に身を任せる。
 気が付けばあれだけ激しかった雨もとっくに上がっていた。今日も手元の本は十数ページから動いていない。彼女が通いつめていたのと同じように、同じ曜日、同じ時間で行われる僕と彼女の読書会が時を進めることは決してない。立ち上がり、元の場所に本を戻す。顔見知りになった司書さんと出る間際にニ、三の言葉を交わし、外へ。潔く散った黄色の花弁は彼女のように気高く見えた。

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