『それでもあの人を愛したから』

 祝福してくれる?と彼女は言った。彼女が抱えた愛と無垢の象徴は、呼応する波の音に小さく頭を揺らしていた。
 黙ったまま、その小さな掌を見つめる。少し空を彷徨っていた手は、やがてあるべき場所に落ち着いたように、その母親の胸元へ据えられた。
「なんていうの?」
「あなたがつけて」
 目をあげると、彼女は困ったように微笑んでいた。目元に刻まれた皺がその年月を物語る。もう少女ではいられない、といつか泣いていた彼女の姿が頭をよぎった。
 あれから何年かたった。彼女の心は今も、あのときと同じ海岸の潮風にかき乱されているのだろうか。
「孤独なの。私たち。この子が生まれた夜、あの人が死んだって連絡が入って、全てなくなればいいと思った。一人で育てていけるはずもないもの、この子ごと、自分自身の破滅を願ったわ。だけど消えなかった。神様は私に最後まで苦しめと言うつもりね」
 今だって鮮明に覚えている。雨の夜、普段はならない家の電話が鳴り響いた。その音色は木魚の音となって、今も不気味に耳の奥で木霊する。
「私はこの子を名付けられない。この子の未来を願うことが、今はできない。だからね、あなたがつけて」
 あの人の親友だから、あるいは2人の幼馴染だから? 残酷だね。口には出さずにそっと微笑んだ。ずっと恋をしていた相手の子の、名付け親になれと言うなんて。
「僕の名前をつけてもいい?」
 彼女はぎょっとして、泣き出しそうな目で僕を見る。そんなの、と唇がわななく。
「呪いみたいじゃない」
 声が震えていた。
 その通り、これは呪い。君が二度とこの姿を忘れないように。
 何を見てもその背後に僕を思い出すように。生きる未来の先全てに愛を見出すように。
 何度でも思い出す。あの夏、波の音にかき消されそうなほど細い声で、彼女はあいつの名前を呼んだ。泣きながら、しゃくりあげながら。あいつ宛に徴兵の手紙が来た翌日だった。子供がいるのよ、彼女は泣いた。どうすればいいの、このまま死んじまえばいいのかしら。ほつれた黒髪がうなじに垂れて、愛おしそうに腹を撫で上げる彼女の首筋を浮かび上がらせていた。君にできっこない、と言った。軟弱で除隊されたあんたに何がわかるの、というのが彼女の答えだった。
 あれから2年だ。
 さらに細くなった首筋はすすけて汚れていた。もう行くところもないと言っていたのはおそらく本当だ。目の淵は赤く、落ち窪んだ目が絶望を捉えていたけれど、幼子に与えられる言葉は甘く、暖かかった。
 両手いっぱいに生命を抱えているくせに、死を願って絶望する彼女が悲しかった。できっこないくせに、と再び口の中で繰り返した。君にそんなことはできない。だって君は、あまりに命を愛しているから。
「もっと強く抱いてあげなよ。もう離れないって、繰り返すんだよ。この子は忘れ形見なんかじゃない。彼の過去の産物でもない。あいつはここに生きている。僕の中にも、君の中にも。この子がいつかそれを教えてくれる」
 洗礼を授けるみたいに、そっと無垢の額に触れた。
「君の母さんと同じように、君のことを愛するよ。僕らが君を守るから」
 無垢は笑っていた。笑い声を運ぶように流れる波音が、かつての少女の嗚咽をかき消した。

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