『しあわせになれるアプリ』

絶望の夜だ。

男は劣等感に苛まれていた。
今まで、何にでも一番にはなれなかった男だ。
特別なにかに秀でたことは、ない。

学業で5本の指に入ることは簡単だった。
少しの努力と山勘で、だいたいのことはどうにでもなったからだ。
それでも、決して一番になることはない。
彼も決して努力をしているようには見えなかったが、私に足りなかったものは才能なのだろう。

人付き合いで困ったこともない。
特別に気難しい性格をしているわけでもないし、むしろ相手を慮ったうえで接するほうだった。
それでも、決して一番になることはない。
友達の数なんて少ないし、その友達の一番になれたこともない。
私も決して努力を怠ったわけではないが、私に足りなかったものは魅力なのだろう。

恋愛は、したこともない。
人を好きになることが、そもそも少なかった。
魅力は感じるし、素晴らしいとも思う。
一緒にいたいと思う人も、いないわけではなかった。
それなりに人を好きになろうと努力したつもりだが、私に足りなかったのは感性なのだろう。

死のうと思ったことなど、これまで一度もなかった。
死は救済だとか、バカバカしいと思っていた。
死ねば、そこで終わりなのだ。
人にもそう説いてきた。
わたしの根底にある、曲げることのない信念だ。

斯様に思う私が、なぜこの薄気味の悪い夜に、こんな場所にいるのかは見当もつかなかった。
そこにあるのは、排ガスまみれの汚い空気と、人々の生を想起させる光、それに圧される天の光。
そして添えられるように、空調の室外機の騒音が、あたりに轟いていた。

頭を冷やそうと、私は煙草を咥えた。
ニコチンと、タールと、そしていくつかの有害物質に塗れた甘美の味を、肺に迎え入れる。
頭がクラクラするような感覚に陥る。
「ふかし」しかしない私には少し刺激が強かったが、悪くないと感じた。

そんな至福なる時を楽しむ私に、邪魔が入った。
忌々しい現代の知恵の実が、胸元で震えたのだ。

「しあわせになれるアプリ をインストールしました。」

何も操作したつもりはない。
まして、こんな馬鹿げた名前のアプリなど、たとえ天が地に落ちようとも入れることなどないはずだ。
コンピュータウイルスであることも疑ったが、しあわせになれるアプリ、という名称とは程遠い、ひょうきんなヘビのアイコンに、私は少し心を動かされていた。

起動してみると、なんてことはない。
「悩みを、スマートフォンに向けて話してください。」
そう表示されるだけだった。
手のこんだイタズラか、あるいは…。

「私は、何にもなれなかった」
口が動いていた。
バカバカしいことだ。
「誰かの一番になんて、なれなかったんだ。」
ありえない。
「勉強は、できる方だと思っていた。」
アプリが私の悩みを理解してくれる?
「でも、彼には叶わなかった。」
そんなことあるはずもない。
「友達は、いると思っていた。」
なにをたわけたことを。
「でも、私が友達だと思っていたのは、みんな彼が一番だという。」
私の友人ですら理解してくれなかったのに。
「好きな人がいた。」
とうとう私は病んでしまったのか?
「でも、彼女は彼を好きだという。」
私は病むほどに落ちぶれてしまっていたのか。

「いっそ、私は死んでしまいたいと思う。」

急に意識が現実へと戻ってくる感じがした。
正確には、夢から覚めたような。
苦々しい悪夢。

スマートフォンには、文字だけが映っていた。

「つらかったのですね」
辛かった。死んでしまいたいほどに。
「苦しかったでしょう」
苦しかった。息ができないほどに。
「あなたの気持ちはよくわかります」
わかってほしかった。渇望するほどに。

「あなたは、なにもまちがってなんかいない。」

気がつけば、泣いていた。
足には力が入らなかった。
その場にへたり込んで、わんわんと子供のように泣いた。
わたしは、まちがってなんかいなかった。

この絶望の夜を、ハッピーエンドで終わらせよう。
タバコなんか、なんの価値もないように思えた。
箱を握りつぶして、その場に捨てた。
ここに、350mlのビールでもあれば、私は無敵になれたのに。
いや、お酒もいらない。
わたしは、もうなにも、いらない。
さあ、一歩を踏み出すときだ。
画面の向こうの彼が、わたしを待っている。

わたしにとって、希望の朝。
警備員がビルの屋上で目にしたものは、握りつぶされたホープの空箱と、それに寄る小さな蝿が一匹だけだったという。

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