診察室に、30代の男性が入ってきた。
初診の患者だ。
春の音が聞こえるころ、小雨の降る夕暮れ近く。
それほど患者の多いときではなかった。
問診票に目を通すと、症状の欄には「その他」とあった。
「今日は、どうされましたか?」
私は聞く。見た限りは悪そうなところはなかった。
視線もしっかりしている。身なりも清潔で、短髪、さっぱりした印象だった。
「先生に会いに来ました。」
男性は言う。私は面食らった。
私に?
「わからないですよね。ボクは随分、大人になりましたから。」
「どちらかでお会いしましたか?」
もしかしたら、昔見た患者だったのだろうか?
私は小児は診ていない。では、患者の家族なのだろうか?
「どなたかのご家族ですか?」
男は笑った。なんとなく、瞳が揺れている。
「母がお世話になりました。実は、母は先日、亡くなりました。天寿を全うしたと思います。」
それから、男性は昔語りを始めた。
ーボクが先生に初めて会ったのは5歳位のことでした。
その頃、母はずっと父を怒鳴っていました。
目に見えない何かと会話をしていました。
時折、ボクに焼けた火箸を押し付けようとし、父と押し合いの喧嘩になりました。
父は母を先生のところに連れてきました。
ちょうど、今日のような小雨の降る日でした。
ー先生は、母と話しました。
母は髪の毛もろくに手入れせず、化粧もせず、ひどい顔をしていました。
時折急に大声を出しました。でも、先生は真剣に母の話を聞きました。
それから、父の話を聞きました。
多分、父は泣いていたと思います。私は父が泣くのを初めて見ました。
診察室で待っていた私は、とても怖かったのを覚えています。
ー最後に、先生は、ボクを診察室に呼びました。
ボクはとても怖くて震えていたと思います。
母はどうなってしまったのだろう。
この人は母をどうするのだろう。
父がこのまま弱って死んでしまったらどうしよう。
でも、先生は、おっしゃいました。
「君のお母さんは頑張りやさんで
いろんなことを一生懸命やりすぎて疲れてしまったようだ。
人は疲れてしまうと、ちゃんとものを考えられなくなったり、
怒りっぽくなったりする。君も眠たいときとかは怒りっぽくならないかい?
ね、だから、これから、君のお母さんは、この病院で少しお休みをしたらいいと思うんだ。
その間、君はお家で頑張れるかな?」
ー先生は、にっこりほほえみました。
ボクは頷いたと思います。
「えらいね。そうだな・・・最初の何週間かは、お母さんがしっかりお休みするために
君や君のお父さんと話をしないほうがいいと思うんだ。
心配するからね。
でも、その後、元気になったら君とも会えるし、お家で過ごす時間も作れると思う。
もっと元気になれば、お家に帰れる。」
ーこの時、他にも先生は何かおっしゃったと思いますがあまり良く覚えていません。
でも、ボクは、ボクが一番恐れていたことを聞いた、その時のことだけは鮮明に覚えています。
「ママは、ボクのことがきらいになった?」
ーボクが一番怖かったのは、母が自分のことを嫌いになって、もう二度と家に帰ってこないのではないか、ということでした。
母の病気のことを、ボクはまだ良く理解できませんでした。
ー先生は、ボクの頭に手を置きました。温かい、大きな手でした。
そして、ゆっくり、ことさらゆっくり、こう言いました。
「君のママは、君のことが大好きだよ。
そして、大丈夫。絶対に良くなるから。」
ーボクの中の怖さが、薄くなりました。
先生は「大丈夫」とおっしゃいました。
ずっと、どうして良いかわからなかったことを、どうしようもなかったことを。
先生は「大丈夫」とおっしゃったのです。
ー母はその後、退院して家に戻ってきました。たしかに以前の母そのものではなかったけれども、
ちゃんと帰ってきました。
その後、先生は別の病院に移られ、母の主治医は別の先生に変わりました。
残念ながら母の病気は何度も再発しました。そのたびにボクは怖くなりましたが、先生の言葉を思い出しました。
先生は、確かに「大丈夫」とおっしゃったのです。
ーこの世の何処かに「大丈夫」とおっしゃった先生がいる。
もし、今の主治医が母を直せなくても、先生のところに連れていけば、必ず母は良くなる。
ボクは思っていました。
ボクにとって、先生は「キセキ」だったのです。
ー母は天寿を全うしました。ボクは先生にお礼を言いに来ました。母のことを伝えに来ました。
男性は、深く頭を下げた。
思い出した。ちょうどこんな細雨の夕暮れ、まだ若く、大学病院に勤めたての私が担当した患者。
その患者の子どもが、30年も経ってから私を尋ねてきたのだ。
若く未熟な私が言った言葉を
「大丈夫」などというありきたりな言葉を
この男性はずっと心に留めていたのだ。
ずっと支えにしていたのだ。
私の瞳も揺れていただろうと思う。
窓の外の細雨が止まった気配がした。
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