『『一条貢は人間を知っている#1』』

 夏真っ盛りと言えば聞こえはいいが、私からすればただ暑くて堪らない日だ。外を歩けば汗が額から流れ落ちるし、体からもどっと汗が噴き出す。額を手の甲でいくら拭っても汗は止まらない。無限に汗が出ていくのではないかと思うくらいに出てくる。私は根っからの汗っかきであるから、人一倍汗が出てしまうから厄介だ。正直、夏場は余り外に出たくはないし、出ないようにしている。そんな私が何故この太陽が真っ赤に輝く炎天下に晒されているのか。どうしてこんな急勾配の坂を登っているのか。それは、呼び出しを受けたからである。呼び出したのは、一条貢だ。貢は私の友人であり、仕事仲間でもある。貢は『深窓の美少年』と呼ばれる巷でも評判の美丈夫だ。街を歩けば女は必ず振り返る。目が合えば虜だ。私のような平々凡々とした男とは住む世界の違う人間だ。貢が凄いのは容姿だけではない。彼は日本有数の資産家の一人息子であり、余り余る富を欲しいままにしている。私が今必死に登っている通称『吃驚坂』。それを登り切れば、貢が暮らしている巨大な洋館が顔を出す。その洋館は貢の為に彼の父が建てたものであり、住んでいるのは貢と貢の侍女であるフサさんだけだ。貢は人見知りで、人嫌いであるから、自分の側には気に入ったものしか置かない。その中に含まれているのは私だったり、フサさんだったりする。フサさんは貢が未だ赤ん坊の頃から一条家に仕えている人で、貢はとても慕っている。第二次世界大戦を経験しているからか、説教がてらその話をよく聞かされたらしい。特に、食事を残すと戦時中は云々という話が始まり、食べ終わるまで許して貰えなかったそうだ。因みに、年齢は不詳だ。女性に歳を聞くなど言語道断らしい。
 私は漸く吃驚坂を登り切った。毎回十五分掛けて登ると息が切れる。汗が地面に落ち黒々と染まり、直ぐに乾いていく。私は呼吸を整え、真っ直ぐに貢の邸宅に向かう。繁華街の外れのそのまた外れにあるから人通りは滅多にない。この辺りは未だ開発が進んでいないから、周囲は殆ど緑に囲まれている。日に晒されていた坂とは違い、木々の陰に入れば随分と涼しい。私は陰をつたうように歩いていき、邸宅の門を目指す。高い塀で囲まれた邸宅は生半可な泥棒でも入れないほど高い。門の前に着くと、フサさんが凛とした姿で待っていた。フサさんは長袖のエプロンドレスを着込んでいるというのに、汗一つかいていない。
「お待ちしておりました、永原様」
「どうもこんにちは、フサさん」
 フサさんはエプロンドレスのポケットから懐中時計を取り出すと、
「お約束の時間の五分前。まあいいでしょう」
「時間厳守は大人としての基本ですから・・・・」
「当たり前です」
 ピシャリと襖が閉まる音が聞こえた。フサさんは時間に物凄く厳しい。約束の時間を一分でも過ぎれば、邸宅に入れてくれない。私は二度同じ過ちで入れて貰えなかったことがある。
「では、お入り下さい」
 重々しい鉄格子の門が開き、私はフサさんの後ろに付き従うようについて行く。門は絡繰式になっており、鍵がなければ動かすことすら出来ない。邸宅を設計した高名な建築士の設計思想に基づいて造られているそうで、大男が数人いても門はビクともしない。私はフサさんの後ろを歩きながら、周囲を見通す。邸宅の入り口に着くまでに五分掛かる間、フサさんは一切口を開かない。だから、手持ち無沙汰の私は、重苦しい空気を紛らわせる為に周囲の景色を眺めるしかない。手入れが行き届いた洋風の庭の芝生が水々しく輝いている。定期的に庭師の人が手入れをしているから、いつ来てもその姿は美しく、雑草など生えていない。
 邸宅の中に入ると、私はいつも通りに貢の自室へと通された。貢の部屋は二階の角部屋だ。フサさんは貢の部屋までは付いて来ない。私と貢が仕事の話をする時は、フサさんは部屋には入らないと決めているようだ。その代わり、貢の部屋にはティーセットとお菓子が準備されている。長時間居座っても一切問題ないというわけだ。私は慣れた手付きで扉をノックする。
「貢、私だ。入るよ」
「どうぞ」
 今日の貢はやはりご機嫌だ。その予感はあった。私の自宅にフサさんから電話があった時から何となく分かっていた。私は扉を開き部屋の中へと足を踏み入れる。
「やあ、脩介。待っていたよ。いや、随分と待たされた。お陰で、紅茶を二杯も飲んでしまったじゃないか」
 部屋を入るなり、貢は捲し立てるように話し始める。
「急に呼び出されたんだ。しょうがないだろ?これでも随分と急いで来たんだ」
「ああ、そうだろうね。君の汗のかきかたはいつも以上だ。フサが指定した時間に間に合わないとでも思って道中走ったのだろう?吃驚坂だけじゃ、君のシャツはそんなに汗で濡れたりしない」
 図星だった。確かに、此方に向かう途中で小走りをした。休日ということもあって思っていたよりも繁華街が混んでいて時間を消費してしまったからだ。
「まあいいさ。とりあえずそこに座ってくれ」
「ありがとう」
 私は天鵞絨の紅いソファーに腰掛ける。貢の部屋の中は本で埋め尽くされている。南向きの窓から伸びるように本棚が部屋の中を埋め尽くし、その本棚の中を更に様々な本が埋め尽くしている。貢は本を買い込んではソファーに寝転がり読み耽る生活をしている。その合間に仕事をしているような感じだ。貢が書斎机がある方の椅子に座っているということは、仕事をしていたという証拠だ。
「今日、脩介を呼び出したのは他でもない。例の事件の犯人が分かったからさ」
「本当か?」
「ああ、勿論だよ。僕は嘘を付かない」
 貢は意気揚々とした様子で僕の正面にあるソファーに腰掛ける。
「それで、犯人は誰なんだ?」
「まあ、焦るなよ。探偵である僕と刑事である脩介。これからのやり取りはその間のやり取りだ。そんな汗だくなだらしない様子で聞いて欲しくはないな」
「・・・分かった。汗が引くまで少し待ってくれ」
「勿論だとも。安楽椅子探偵は気が長いんだ」
 貢が猫のようにくすりと笑う。どの表情が確実に犯人を探し当てたと物語っていた。

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