『窓の灯り』

「ナオト」と呼ばれても自分が呼ばれてる気がしない。「ナオト」は俺の名前だが、ほとんどあいつの名前だから。人気者の「ナオト」俺も同じ「ナオト」だと知らないクラスメイトもいて「あれ? お前もナオトなんだ」と驚かれることもあった。俺は「安藤」や「安藤くん」と呼ばれていた。

「Wナオト」でお笑いコンビ組もうぜ、とナオトから言われ断った。それでもナオトは「Wナオト」の呼称をクラスに広めようとした。結果、ナオト以外の口から「Wナオト」を聴くことはなかった。自然消滅した「Wナオト」俺が地味すぎてナオトと釣り合わなかったのだ。

だからって「ナオト」という呼び名を変えてくれと言うことはなかった。説明するのが面倒だし説明したらしたで相手をちょっと悲しい気持ちにさせかねないからだ。俺は「ナオト」なんだし、いつもいつもあいつを思い出すわけでもない。もっともその呼び名が完璧に俺を表していると感じることもないのだが。俺であり、俺でない。いいのだ、それで。むしろその方がいい。俺はもともと地味で暗い。だから俺の呼び名にあいつが入っているというのは、もうひとつの人格、人格だと大げさだけど要素が俺の中に入っているのと同じことで明るくて人気者のあいつに俺は助けられてる気がする時もある。

「喪に服す」なんて難しい言葉、行為を俺に理解できるとも実践できるとも思わないけど、マンションに帰り、部屋着に着替えてソファに身をあずけてずっと動かずにいたあの時間、もちろん眠っていたわけでも努めてじっとしていたわけでもなかった。考えようとして考えていたわけでもなく思い出そうとして思い出していたわけでもなく考え思い出していたあの時間。テレビやネットや本がもたらしてくれる情報からあれほど遠く離れ、あるいは完全に遮断され、たったひとりで過ごしたあの時間。

ふと、あ、もうすぐ帰ってくると思い俺は立ち上がり部屋の灯りをつけた。何かを見るにはもう灯りが必要な時間になっていることにすら気が付かぬまま俺はナオトのことを考え、ナオトとのことを思い出していたのだった。危ない危ないと俺は思った。ナミを怖がらせるところだった。ほどなくしてナミが帰宅した。

「どうだった?」とは訊かない。「お疲れさま」と言ってくる。「どうだった?」なんて訊かれたら、どう答えていいか分からない。「お疲れさま」だったら、「うん」と頷くだけでいい。ナミのこういうところが好きだ。けど「どうだった?」と訊かれたとしても、やっぱりナミのことが好きだ。気にかけてくれて、話を聴こうとしてくれて、俺が悲しいなら悲しいでその気持ちを共有しようとしてくれて、俺はうまく整理して表現できないかも知れないけど、話すことで肩の荷が下りるような気がするかも知れない。

「私、食べてきたから。はい」俺はナミからイタリアンスパゲティの入ったコンビニの袋を渡された。「ナミは?」「私、食べてきたから」「あ」俺は思わず声が出た。さっきナミはそう言って俺にコンビニの袋を渡したのだった。「サンキュ」俺はレンジで温めて食べた。食べながら俺は何かがおかしいと思った。スパゲティの味ではなくて何だろうこの違和感、静けさは。ナミはシャワーを浴びていた。俺は振り返り壁にかけられた時計を見た。

ベッドにうつ伏せになったナミにまたがり、俺はナミをマッサージした。ナミは両腕を頭の前で重ね、枕の替わりにしていた。目を軽く閉じた横顔が見える。無防備な腋はこちょこちょするにはもってこいだが、もちろんしない。しないことで築かれる信頼もあるのだ。

ナミは強めなマッサージが好きだ。俺はナミをマッサージしながら「怖かったろ?」と訊いた。ナミの瞼はかすかに動くが目は閉じたままだ。眠ってないよ、聴いてるよ、という合図だろう。「何が?」ほとんどつぶやくような小さな声でも聴こえる距離、静けさ。「灯りもつけず、何してるんだろうって」「全然怖くなかったよ」ナミは少し体を動かし、つぶやくような小さな声でも聴こえるけど、これは大事なことだから、とでも言うように声に力が入る。「ナオトの邪魔したくなかったから」そう言うと再び力を抜き、リラックスする。ナミの体が柔らかくなる。「灯りはついてなかったけど、もう帰ってきてるって分かった。なぜかね。なぜかは分からないけど、分かった。それで、しばらくひとりにしておいてあげようって思った。ナオトにとって今、とても大事な時間だから、邪魔しないでおこうって。我ながら気が利くなって思ったよ」ナミは目を閉じたままかすかにほほ笑む。「不思議。同じような経験があるわけでもないのに。それで、向かいのカフェで、夜ご飯食べながら、灯りがつくの待ってた」「ごめん」「いいの。私、待ってた。怖くなかったよ。灯りがついて、ナオトが帰ってきたって思った。嬉しかった」俺はナミをマッサージしながら「当たり前じゃん」と言った。「いつでもちゃんと帰ってくるよ」眠る寸前のような、ほとんど眠っているような声で、ナミは「知ってる」と言った。そう言うとナミの体はこれまで感じたことがないほど柔らかくなり俺は手を止めた。ナミは眠っていた。

ナミの寝息を聴きながら、俺はナミの隣に横たわり、目を閉じた。眠りはすぐに訪れた。

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