この頃、禁煙の店ばかりが目立つ。ファミレスはもちろん、ちょっとした待ち合わせの喫茶店にだって、目立つところに禁煙の張り紙。馴染みのマスターのこの店が俺は好きだ。コーヒーは不味いが、店内の雰囲気は悪くない。ここで吸う一服は、大袈裟ではなく、俺の1つの幸せの象徴だったはずだ。
ただの待ち合わせ。そう考えて、俺はタバコから意識を遠ざけようとする。あまりにアメリカンが過ぎるコーヒーは飲む気になれないので、ただ窓の外を眺めて時間を潰す。
過ぎ行く人々はあまりに様々だ。その眺めを見ていると、無性にタバコが吸いたくなる。要するに、何もしていない時間のお供がいない事に、俺は少なからず苛立っているという事だ。
時計を見る。待ち合わせの時刻はとっくに過ぎていた。俺は舌打ちをしてしまう。そうすれば彼女がやってくるのだとばかりに。
「あなたが苛立ちを見せたらその分、世界は時を止めてしまうのよ」
ふと、彼女の言葉を思い出した。いつも遅刻ばかりしてくる彼女は、そんな風に言い訳をしていた。
貧乏ゆすりが始まる。時計を見て、また舌打ち。控えめなBGMは、俺の苛立ちを抑えてくれない。何人かの客が、俺の方を振り向いた。俺は知らぬふりで、カップに手を伸ばす。これなら白湯の方がマシだろう、変わらず不味いコーヒー。
彼女が来たのは待ち合わせから1時間が経ってからだった。それなのに、口を開いた彼女はトンチンカンな事を言う。
「ねえ。イライラしてたでしょ」
「そりゃそうだろう。1時間だぞ、1時間。俺はそこまで気長じゃないことくらい知ってるだろ」
俺が求めているものは、彼女からの謝罪だ。しかし彼女は、まるで悪びれる風もない。それどころか、
「イライラしちゃダメだって言ったじゃん」
と、俺へのダメ出しと来た。これには呆れるしかない。
「どう言う意味?」
「言ったじゃん。前。あなたがイライラしたらその分、世界は時を止めるよって」
「だから、なんだよ」
「だから、そういうことじゃん」
彼女は強気に言い放つ。
「私はね、遅刻をしたくなかったの。でもね、仕方がない。だって、時間が止まっちゃうんだもん。いやもう、ホントに参ったよ。急ごうとすればするほど、あなたはイライラしてたんだろうね、すぐ止まっちゃうんだから。だから、私の遅刻は私のせいじゃないの」
彼女はそれを言い終えると、マスターにココアを注文した。ここのココアは絶品で通っている。
しばらくの沈黙。でもそれはまるで苦痛には感じなくて、出来れば永遠そうしていたいような、緩やかな、優しい空気。
「そう来たか」
「怒りっぽいのが悪いんだよ」
俺はおもむろに内ポケットに手を伸ばす。
タバコを出そうとして、彼女が言った。
「あ、喫煙しちゃダメだよ。あなたが喫煙すると、世界が大変な事になるから」
「今度は何が起こるんだ?」
ココアが運ばれてくる。彼女はストローで啜って、一息つく。
「次までに考えとく」
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