『無知』

隆は、ある日曜日、子供3人連れて公園に出かけた。美和が昼ご飯を作る間、戸外に子供を連れ出すのが日課だ。
公園の横に中古物件売り出し中の、のぼりがたっているのを見た。
とうとう、売りに出されたんだ、、。

築30年.4LDKリフォーム済み
そんな文字が踊っていた。

不動産屋の営業マンらしき痩せた男が出てきた。
歳は30代前半のようだったが、
近づいて来た。
しゃがれた声で、
「あ、こんにちは!先程はどうも。暑いですねぇ。見るだけでいいので。どうぞー!」
アパートを出るとき、すれ違った男だった。
内覧希望者と勘違いされたようで、隆は気乗りしなかったが子供達は自分より先に走って中に入って行った。
古い物件に不釣り合いな新品のスリッパに違和感がある。

6世帯の古いアパートの1階にもう結婚前から暮らしている。美和の独身時代の住まいに自分が転がり込んだ。もう8年以上前だ。
まるで覚えたてのスローガンを読むよう調子で言った。
「土地込み、2000万ですよ!今なら100万引きします!いい物件ですよー!」興味がない人間に勧めるのはやけくそにでもならないと、苦しいのだろう。多少同情した。
「帰って嫁さんに聞いてみますよ。」
軽く笑顔で答えたが、「やっぱり、広さはお子さん達にとっても大事ですよね!」靴を履く隆のうしろで、声がしていた。
美和は、押し入れで、1週間前に保育園ママとの合コンで知り合った男とラインをしている。
なんとなく、部屋のダイニングでやりとりはしたくなかった。
眼に映る日常からは離れたかった。
男からラインが来て、咄嗟に押し入れに入って画面を見つめた。
合コン相手の男達は
殆どがトラック運転手で、その中で彼は、イケメンの部類。まさか自分にラインがくるなんて思わなかった。だから、かなりの勝利感を味わっていた。心臓に一気に血が集まるような感覚だ。ドキドキするなんて。
男とのラインをこの自分が普通にやれているのが不思議で人ごとのようにも思えた。
バタバタと足音がして
智が押し入れを開けて入ってきた。
「ママー、なにしてるのー?」
無造作に押し入れの戸を開け、美和に抱きついてきた。携帯が押し入れの床に落ちた。
「ママ、ハート可愛いのいっぱいだね!」
すぐさま美和は、智から携帯を奪い取った。
その時だ。夫が帰って来た。美和にゾッコンの夫は話し方も子供じみていた。
何事もなかったように、
笑顔を作り「早かったね!ありがとう!」美和は
その日の夜、隆は美和に昼間の不動産屋の話をした。
何故か隆はあの家で走り回っていた子供達の表情が頭の片隅から消えなかった。
「俺、あれ買うわ」
「は?」美和は隆の買うわの意味がまだ飲み込めなかった。買うとなってからは激流の川に自分が浮かんでいるような勢いで
事が進んだ。
あっと言う間に引っ越し日まで決まった。
当然美和はバイトをしないと生活が苦しかった。今までのボロアパートの家賃の二倍に毎月の住宅ローンは組まれた。
たまに実家の美容院を手伝い、お小遣い程度を稼ぐくらいじゃ追いつかない。
大学まで出してもらえたが、卒業と同時に実家にアルバイトに来ていた隆と結婚したので、社会経験は無いに等しい。
美和は、程なくして、スーパーの品出しをし始めたが、要領が悪い。
いつも先輩から叱られる。
上目遣いに謝る。
その繰り返しをするしかなかった。

家さえ買わなければ、専業主婦でいれたのに。そう思わない日はなかった。
ポケットに入れてあるスマホを見るのがせめてもの蜜だった。
トラック運転手の敦からラインがきている。
合コン以来会っていないが、会いたい。
いつ会える?と書いてある。
いつ、、。
美和は「昼間なら。」
バイト、一日くらい休んじゃおう。

自宅から10分歩いた場所の公園が待ち合わせ場所だ。
敦はトラックで待っていた。
美和は、助手席に乗り込むと、近所の目を気にしてキャップを深く被った。
誰が見ているかわからない怖さがあった。
「どこへいくの?」
「俺んち」
午後1時すぎに敦のマンションに着いた。賃貸マンションだが、そこそこ新しい外装のようだ。

美和は結婚してから一度も浮気をしていない。多分隆もだ。
自信がある。
体の相性が良かったし、隆は美和が喜ぶポイントを押さえていた。

美和は玄関を入ると先に部屋に上がっていた敦に抱きすくめられた。
電気が流れて足元が痺れるような感覚に落ちた。

事が終わると公園近くまで送られた。
結局セフレか。美和は思った。
その足で近所のアルバイト先ではないスーパーに惣菜を買いに行った。
罪悪感と、女として見られたことの
優越感が入り混じっていた。
いつもより、コロッケを多めに買った。

それからは敦とバイトの帰りや前に逢瀬を重ねた。
何か罪悪感はなくなり、習慣化されてしまった。

敦の部屋は202だった。
合鍵を渡されていたから、自宅から自転車で15分も乗ればマンションに着いた。
その日は雨が降っていて、敦は現場が急に休みになったとラインが来ていた。
会える!美和は思った。
隆は神田まで1時間も電車に揺られ
勤め先の床屋まで行っていた。
その日の朝ラインを見てから、なんて言ってバイト先に休むと電話をしようか考えた。
隆は、パジャマ姿で「風邪気味だから休もうかな、熱あるし」。
邪魔が入った。「私、急にバイト休めないよ、人が足りないの、今日。」美和は咄嗟に答えていた。

美和は、いつも通りのトレーナーにジーパンを履くと自転車で家を後にした。
途中の酒屋に停めてバイト先に電話をした。理由は旦那が急病と言った。自分がいとも簡単に嘘をつけるとは、自分が変わってしまったのはわかっていた。
夫に朝ご飯の用意もしないで、セフレに会いにいく自分を軽蔑したが、
それより敦に会いたかった。
二カ月程経ち、淳と密会した後2人並んで階段を降りて駐車場に向かう時だった。
「おい、お二人さん、お疲れ」。
夫だった。
隣には夫の弟が立っていた。
「部屋でなにしてた?」
夫は今まで見たことがないような形相で敦と私を見た。
「相談していたの!!」大きめの声を出した。
「よく言うよ、義姉さん、俺さ、真向かいのアパートに住んでるんだぜ。しょっちゅう、やりに来ていたのを知ってんだよ。」
Vネックの薄いセーターから胸の谷間が見え、ミニスカートの自分に言い訳が見つからなかったが、「仕事や家庭の相談にのってもらっていたから。」思いっきり引っ張られて、家に連れていかれた。左頬を引っ叩かれた。
隆は、信じられない言葉を言った。
離婚すると。子供はやらないと。
美和は敦と別れた。
敦には自分のような女がまだ二人いた。

今は昼はファミレス、夜は焼き鳥屋で働いて生活している。昨日ガスが止まり、今日は、炊飯器でジャガイモを蒸し食べている。
裁判で養育費、慰謝料を払う決定も出た。
あのまま専業主婦でいられたのに 。
合コンに行かなければ。
全て自分の無知から来た嵐だった。
あのままボロアパートにいたらどうだったか。
バイトを理由に外に出れない自分だったはず。幼い末子は、保育園に入れず、手元で育てたはず。
幸せだったはずと、美和は実感したのだった。
そんな美和にも窓からみえる夜空の月は綺麗だった。

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