『父に。』

「ごらん、あれはお前の栗の木だ。」そう言って隣の部屋から父の声がした。
兄と私は六畳一間を仕切りで分けてそれぞれ自分の部屋として使っていた。母が夜勤の日の夜、父は誰かにそう話していた。「ウフフ、、」笑う女の声もする。私はそうっとドアを開けて自分の部屋から出た。リビングの皮のソファーに赤ん坊を抱いた父と見知らぬ女が座っていた。ビールと枝豆があった。シャンデリアから漏れる弱い黄色の灯りが女を生々しく照らしていた。「あら、起きちゃったの?寛子ちゃん。」女は私を見てそう笑った。父が「早く寝ろ!」そう言ってビールを飲んだ。まだ生まれて日が浅い赤ん坊だというのは小学2年生の私にも理解できた。栗の木は、家の木だ。それを何故赤ん坊の木だと父は言うのだろう。ドアを閉めて布団に潜った。仕切りの奥から兄が「おい、寛子、誰がいた?」「知らないおばちゃん」すると押し殺した声で「今日見たものは、お母さんには言うな。言ったら殺すからな。」私は黙っていたが、しばらくして「うん。」と答えた。答えるしかなかった。母は真面目でずっと個人病院の看護師として働いていた。今日は夜勤で母はいない。この出来事がなんだったのかは、後にわかったが、今もあの日の光景は焼き付いている。
父は外に女、子供がいた。それは父と母が離婚し、戸籍謄本を見たときに認知した子が二人いたことでわかった。母は産婦人科で働いていた。
父は不動産屋で働いていたようだが、家に殆ど金を入れず、殆ど帰りもしなかった。帰って来たと思ったら、すぐ出かけたりした。ある日父は寝っ転がって、ミルク缶にスプーンを差し込みそれを口に入れ、おやつのように食べていた。
「賞味期限近いミルクがまた出たら持って来てくれ。意外と美味いし栄養もある。」私も真似して横に並びその白い粉を頬張った。口の中の水分が全部その白い粉に奪われるが、父は咽もせず食べ続けた。母は、へー、そうなの、わかったわ。ぐらいで、次の日に大きなミルクの缶を持ち帰って来た。父は急いで紙袋に缶を詰め出て行った。
今思えば自分の乳飲み子にミルクを与える為に母に病院で廃棄になりそうな物を持ち帰らせていたのだ。母は、戸籍謄本を見て発狂して父に電話をした。電話口には祖母が出たらしく、「息子をだせ!今まで騙しやがって!あんたもグルか!」母は号泣していた。私はそんな母を哀れに思った。
だが、家にお金も入れず帰って来ても、またすぐ出て行く旦那を放っておいたのは母自身だ。
怪しいとは思わないのか。
父が離婚し翌日出ていくという日の夜、私にイソップ童話を読み聞かせた。北風と太陽だった。
解説つきで、読んではくれたが、私は父をあの日から嫌いだった。だから頬っぺたに父が自分の頬を寄せて「お父さんを好きか?」と聞かれた時に迷うことなく「きらい」そう言ってやったのだ。
一瞬寂しげな顔をしたようだが、気を取直し「そうか」と一言父は呟いた。
母が知らない間に女や子供を連れ込み、本妻の子供に見られても尚、自分のことを好いているかと聞いてくる自分の父に嫌気がさした。
噂で聞いたが、父はその後例の女と再婚したが、
不眠症になり、鬱病になったらしい。
父がもう少し利口であれば、外に子供は作らなかったであろう。
今40代となった私は、あの頃の父の年齢になり、
父の本心を聞いてみたかった、と思うのだ。
あの、一緒にいた女の言いなりで妊娠、出産を二度までも繰り返した、父の本心をだ。
憎しみが強かった父に対する思いも、どこかで風化し、イソップ童話を声色を変えて読んでくれた
あの時間は母には内緒に心の中に仕舞っておこう。あの一瞬の悲しい顔が全ての謝罪と思い父を初めて許そう。

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