『昏い穴を滑る男』

ザザザという音が、ずっと耳障りに聞こえていた。
体が小刻みに振動している。

意識が浮上し、目を開いた。
しかし辺りは真っ暗で、何かが見えるという事は無かった。
ただ、音と振動の正体は分かった。

俺はどこかへと落ちている。
左の壁に重心を傾けながら、滑り台を降りるように。
無音の闇の中で、土の臭いだけがした。

助けを求めるべく何度か声を上げてみたが、反響して消えゆくのみだった。

恐る恐る手を伸ばし、辺りに触れる。
左側には土っぽい壁があり、反対側には壁も、何も無かった。
そっと地面に触れると、左の壁から幅50センチ程の平面が続き、そこから先は崖のように切り立っている。

しばらく滑り続けてなお、その状況に変わりはなさそうであった。
たった50センチの幅に、俺はいる。もし右へと重心がずれたなら。
俺は努めて考えないように、ただ左の壁に肩を擦りながら再び目を瞑った。

暗闇では、もはや目を開けている理由が無い。

この空間はどこに繋がっている?
終わりはいつ来る?果てはどこにある?
俺は、どうしてこんな事をしている?

どれほどの時間が経ったか。
左肩の衣服が擦り切れ、所々で皮膚が擦れるようになった。
始めこそあった痛みも、今や慣れてしまった。

まだ、ゴールは見えない。

ジーンズ生地のためか、ズボンの方はまだ持ちそうだが、こちらも限界はそう遠くないだろう。
この状況になる前の記憶は、まるで無い。夢でも見ているのか。

『死の螺旋』。
ふと目を開けた時、暗さに順応した瞳が、この巨大な空間の一部を認識した。

……認識してしまった。
発狂しそうになった俺は、何とか踏み留まり、息を荒げながら再び目を瞑った。
いっそ、気が狂って穴へと落ちた方が楽だったかと、今は思う。

恐怖が先に立ち、その決断をする事はまだできないが。
いずれそうなる可能性は、低くない。

見えたのは、大きな穴だった。
内側には、細かな出っ張りが幾重にも幾層にも連なり、反時計回りにどこまでも続いていた。
ネジに刻まれた螺旋のように。

俺はそこを、滑り落ちていた。
緩やかに右に沿って、何度も円を描きながら、どこにも繋がらない深淵の奥底へと、落ちていく。

恐る恐る上を見れば、遥か遠くに光の点が見えた。
しかし戻ろうにも、急なこの傾斜では立ち上がる事も難しかった。
ただこの壁と、僅かな地面に身を委ねて、俺は落ちゆくしかないのだろう。

絶望の淵に揺蕩う意識の中で、脳裏には少しばかりの、以前の記憶が蘇ってきた。
どこかで聞いたような音楽が聞こえる。

暗い雰囲気の、物悲しそうな女の歌声。
重低音のベースが響き、ピアノの高い旋律と共に、その声は燃え盛る炎のような力強さを増していく。

それは俺の好きだった曲だった気がするが、どうにも思い出せない。
何となくのメロディーを口ずさみながら、俺は終わりを待った。

擦れ続ける左肩が出血を始め、上着を脱いで肩に当てなおす。
何度か繰り返していくうちに、その生地も穴だらけとなって、肩を守る事は出来なくなった。

丈夫なジーンズ生地も穴が開き、尻が直に冷たい地面の凹凸によって擦れるようになった。
擦り傷が深く刻まれていく痛みで、正気が欠けていく感覚と共に頭に白い靄がかかっていく。

俺は血の痕跡を残しながら、昏い底へと落ちていく。

あぁ、思い出した。
全部、全部。思い出した。

生前に、俺はこの手で。あぁ、これは罰か。
行き着く先は……そうか。

じゃあ、もう良いか。

俺は勢いのまま立ち上がる。
ずっと体を動かさなかった事で、節々が別の痛みを訴えた。
ぎこちなく体を起こし、細い道幅を駆ける。

勢いがついた所で、壁を蹴り飛ばして身体を翻し、穴へと逆さまに落ちた。
窮屈な姿勢と身を削る痛みから解き放たれた身体は、清々しさに満ち。
気分は晴れやかだった。

体が自由落下を始める。
きっとまた、見果てぬ闇へどこまでも落ちていくのだろう。

俺は天国へは行けないから。

さぁ、地獄へ落ちていこう。

この短編小説にはまだコメントがありません。
ぜひ一番最初のコメントを残しましょう。