『きっかけ』

しかめ面で息を吐いた。

本を閉じ、一度目を瞑る。
先ほどから幾度となく同じ行を目が滑っている。どうにも内容が入ってこない。
主人公が友人を説得するのもこれで5回か6回目くらいになる。『先入観や固定概念によるバイアス』などと小難しい話が続き、それを上の空で聞いてるのは友人でなく僕自身だ。いい加減先へ進んでくれと、主人公がこちらに訴えかけてきてもおかしくない。

どうやら、脳の一部が意識とは独立して別の事を考えているみたいだ。こんな状態ではとてもじゃないが本なんて読めやしない。作者にも失礼だろう。

目線を上げ、窓の外で流れていく景色をぼんやりと眺める。
気持ちを落ち着かせて、改めて脳の一部に意識を向ける。

......認めよう。

あの子が。
改札の人混みの中、落としてしまった大切なキーホルダーを偶然拾ってくれたさっきのあの子が、僕はずっと気になっている。

......どうしようか?

受け取ってからポケットに入れたままだったキーホルダーに手を伸ばす。
手のひらに転がり出たのは、手作り感の拭えない、毛糸を巻いて作られたキュートな赤いブードゥー人形。変に思われたりしなかっただろうか?
これは前の女の、贈り物だ。落とすなんて、とんでもない。すぐに手元に戻ってきて良かった。

ギュッと握り、あの子に思いを馳せる。

利用する駅が同じなら、また会えるだろうか?
咄嗟の事で、焦ってしっかりお礼を言えなかったのが少しばかり心残りだから。というのは建前で、白状するならば、もっと邪な気持ちの方が大きい。
とはいえ、これは性だ。また会いたい、君を知りたい、いつか仲良くなって、そして……。

「おにーさん、落としましたよ?」
そう言って手渡してくれた時の彼女の笑顔が、脳裏と瞼の裏と胸に焼き付いている。

あどけなさの残る少女の顔。健康的な小麦の肌色。弾むような明るい声。爽やかに揺れるショートヘア。細くて滑らかな首。
制服を着ていたからきっと高校生だろう。しっかりとした子だ。快活なイメージは運動部を想像させる。健康美というのは素晴らしい。何より優しくて、可憐で可愛い。最高に好みだ。
あぁこれまでの、誰よりも。

思い出すだけで幸せな気分になってくる。
考えただけで、胸がドキドキする。

最近嫌な事が続いていた僕に、神様がささやかな癒しを与えてくれたのだろう。
いや、もちろんここで終わりではない。むしろこれからなのだ。

憂鬱な月曜日の朝。それは彼女との出会いによって、素晴らしい始まりの日へと塗り替えられた。今日も一日頑張れそうだ。
自然と笑みが浮かんでしまう。次の仕事の段取りを考えるのも楽しい。

そんな事を思い、電車に揺られる。
結局、本の中で物語の主人公が説得する事はなかった。
大学の最寄り駅に着くまでも、そして彼が極刑に処されるまでも。

連続女性殺人事件の犯人が、地元の大学生であった事は世間を騒がせた。
手掛かりを全く残さない計画的な犯行を続ける犯人の捜査は、事実難航していた。
しかし、犯人が学内の友人に最後の被害者女性と出会った事を嬉しそうに話していたという情報をきっかけに捜査は大幅に進展し、今回の逮捕に至ったそうだ。
逮捕後に彼の自宅を捜査した結果、欠損していた被害者女性達の左手薬指が複数の人形型のストラップ内からそれぞれ発見されたという。

かくも恐ろしい事件であったが、「薬指の譲渡、交換」を新しい愛の形とする、ネットの都市伝説が最近若者の間で密かに流行っている現実こそが真に恐ろしい事であると、週刊誌は伝えた。

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