うたた寝をしていると、一陣の風が鼻先を撫でた。
ふと、あの人の匂いがした。
暖かくて、懐かしい匂い。
脳裏によみがえるのは、楽しかった思い出ばかりだ。
体を起こし、辺りを見回すこと数回。
今日も、どこにもその姿は見当たらない。
「……」
彼はもう居ない。突然居なくなってしまった。
最後に覚えているのは、一緒に近くの公園まで出掛けたところ。
そして気が付けばこの場所にいて、それからはずっと退屈している。
あくびを一つして、体を丸める。
寂しさが募る。
いっそ忘れてしまえればと思った事もあった。
それでも、この大切な思い出を色褪せぬよう何度も何度も思い返しては、彼の事を思うのだった。
今日もまた、あの頃に思いを馳はせ、目を閉じる。
眠ったその顔には、幸せそうな表情が浮かんでいた。
彼女は待ち続ける。
愛してるなんて言った事はなかった。
言う間柄でもなかったから。
でも、もしまた会えたなら……。
たくさんの日々が過ぎ去った後、その日がやってきた。
遠くから人影がこちらの方へと向かってくるのが見える。
ざわりと心が揺れる感覚がして、じっとその人物を見つめた。
そのシルエットは少しずつ大きくなり、彼女にははっきりとそれが分かった。
独特な、肩を揺らすような歩き方。
彼のお気に入りのこげ茶色のハット。
煙草の匂いが染みたレザーコート。
見間違えるはずがない。
立ち上がり、勢い良く駆け出す。
全身が震えている。喜びで息が上がる。全力で、ただ真っ直ぐに走る。
「ご主人――!」
「ははは、久しぶり。こんな所にいたのか」
「ご主人!」
勢いを殺すことなく、その胸へと飛び込む。
彼はしっかりと抱き留め、無骨な手で丁寧に彼女の頭を撫でる。
「ご主人。」
彼の首元に鼻を摺り寄せ、匂いを嗅ぐ。何度も、何度も。
「待たせたね。キミ、あっけなく行っちゃうから」
「?」
「僕も結構頑張ったんだよ? だから遅くなっちゃったんだけど」
「髪。白くなってる」
「キミは変わらないね」
口元を綻ばせながらも、ハットを整えると老年の紳士はゆっくりと立ち上がった。
「じゃあ、行こうか。一緒に」
体を丸めた猫は、ゆっくりと目を閉じた。
待ち焦がれた、自分の慕う主人の腕の中は暖かく、心地良かった。
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