『変わらないもの』

薄暗い照明が、陰気な気持ちをより一層深めていた。
シンプルで洗練されたデザインの室内からは清潔感や高級感に混じって、温かみを失った寂しさが感じられる。さほど高くもないホテルの一室なんて大抵そんなものだろうけど、いつになくそう思えてしまうのは錯覚だろうか。

余韻の残るしっとりとした時間が流れる中、俺は意を決する。
下唇を舐め、そして口を開いた。 

こんなタイミングで言うのは薄情だろうか? 冷酷と、罵られるだろうか?
心臓の脈打つ強い衝撃は、さっきと違って俺の頭を限りなく冷却していく。

部屋に備え付けられた空気清浄機の稼働音が低く唸っていた。

僅かにベッドが軋む音に続き、隣から彼女の生返事が聞こえた。ちらりと横目に見れば、彼女はスマホを弄っている。
俺の言葉にはさほどの関心もないようで、SNSで誰かとチャットするのに夢中のようだ。

引き下がるわけにもいかず、遠くの天井を見据えしばしの間の後に、本題を軽い口調で言ってみた。重い雰囲気よりはいくらかマシだろうと思って。
率直に言ってしまうのが一番だと思う。よくそれで人を怒らせる事もあるけれど、人間は会話の上で抽象的な思考を言葉にしているのだ。本来表現しえないものを表出化させるという過程を踏んでいるのに、更に言葉を掻きまわしては一体どれほどの本質を伝えられるというのか。
それに、どう取り繕ってみたとして"別れ話"というものはその本質を誤魔化す事など出来やしないのだから。

聞き流されていたらどうしようかという不安も杞憂に終わり、俺の発した言葉を一応は認識していたようで、何やら不穏な気配を察知したのだろう彼女はスマホから目を離すとこちらを振り向いた。
眉を顰めたその表情は、驚愕というよりも訝しむようなもの。潜む感情は、"またこいつは急に何を言い出すんだ?"。ガキの頃からの付き合いだから分かる。根拠はそれだけだが、きっと当たっている。

見慣れた気怠そうな表情。化粧を落としてもあまり変わらない、愛らしい顔。三白眼で睨まれるのは、昔から苦手だ。

呼吸を整える。落ち着くのは俺だ。
嘘はつかない。つく必要がない。
言葉は飾らない。意味がない。
角は削る。傷つかないように。
 
俺は、慎重に言葉を選んだ。

好きなんだ。まだ。
ただ、長い付き合いの、その成り行きでなった今の関係を、疑問に思ってしまったんだ。そして、悩んだ。
この選択を後悔しないと確信できなくて。 
これが妥協でないと、証明できなくて。

疑いが芽生えたあの日から、俺はもう『彼氏』でいられなくなってしまった。
だから、別れたい。

そうして俺は、彼女の言葉を待った。

何も考えず付き合った俺が悪かったのか。エゴを持ち出し、大人になれない俺が悪いのか。

彼女はのそりと上体を起こし、足元に脱ぎ散らかした衣服を一瞥した後、シーツを胸元まで引っ張った。
そして、ゆっくりとこちらへと顔を向けた。
 
見透かすような真っ直ぐな視線は容赦なく俺を貫き、冷たく硬化した脳を溶かし尽くした。
何を言われるだろう。いくらかやりとりを想定してはいたが、言いたい事は全て語った。これ以上の論理的な説得はもうできない。ここから先は、ノーガードの殴り合いか。

少し悪戯っぽく口角を上げ、にやりと彼女は笑った。喜怒哀楽のどれとも属さない、ニヒルな笑み。

「あんたの事、見直したかも。もっと適当な男かと思ってた」

そうして彼女は、あっさりと許諾した。お眼鏡に叶う相手が見つかるといいわね、との言葉を添えて。

部屋を出て、近くの駅に着くまで緊張は解けなかった。彼女らしくない言葉と、その意味をずっと考えていた。

別れ際、怒っているかと尋ねると、べつにと返された。
 

新校舎七階のオープンスペース。昼時でも学生たちが集まり、テーブルを囲んで課題をこなす姿は期末試験の前に限らず、いつでも見られる光景だ。
今日も私は、同じゼミの子とグループワークの課題をこなしていた。何でもない日常の1コマだ。

突如呼び掛けられた懐かしい声に振り返ってみれば。
よれた服。華奢な体。真っ直ぐな目。3年という我々若者には長い月日が経っても、ムッとするほど何も変わらぬ男が立っていた。
よくもまぁ自分勝手な理由で振った相手にこうも口が利けるもんだと感心すら覚えてしまう。

この男は平気で、素直に、忌憚なく、人目も気にせず思った事を吐く。綺麗になった、だなんて。
昔の話なんて持ち出さないで。『元カレ』は『他人』と同義なのよ。馴れ馴れしくしないで。
ほら、同じグループの子が『驚愕』という言葉をこのうえなく完璧に再現した顔でこっちを見てる。ペン、落としたわよ。
この男はいつもそうだった。何も考えずに、あっけからんと素直に言い放つ。その言葉に何度私が満たされ、傷ついた事だろうか。今だって分かってやしないだろうけど。

携帯? ああ、番号は変えたわね。別れてすぐに。あなたから二度と、コールされないように。

追い返してやろうと、無いと分かっている用件をぶっきらぼうに尋ねる。"私はあなたに関心がありませんよ"というニュアンスを存分に込めて。
 
『たまたま通り掛っただけ。それだけ。じゃあね』。そんな言葉を望んだ。偶然会ったのだから、用件なんてあるはずもない。さっさといなくなってくれれば話も早い。私はまだ課題の途中なのだから。油を売ってる余裕なんて、

「付き合おう。俺、やっぱお前の事が好きだ。お前がいいんだ」
 
ない。

……この男は、本当に、心底頭にくる。
思わず顔を伏せた私は、どんな表情で、何て言えばいいかを思案していた。……という事にしておく。

ごめん、で済むか。
あの夜私が泣いたことも。それでもあんたの幸せを願ったのも。どうせ知らないんでしょうけど。

私はやや大げさに一息つき、顔を上げる。そしてじっくりとその顔を正面から見つめる。
真っ黒な髪の毛も、少し小さめの耳も、乾燥気味の唇も、頬のほくろの位置も。

「そういうとこ、変わってないのね」

呆れた、という表情を作りながら。
そういう所が、好きだった。
そういう所が、嫌いだった。
素直に過ぎる性格は、プライドや自意識が複雑に絡み合った私にとって羨ましくもあり、癒しでもあった。そして、その言動を前に私は幾度となく自分を省みては落ち込んだ。

今だって、私は。
私の広げていたノートの隅に、私のボールペンで何やら番号を書くと彼は背を向け歩いて行った。
あの方向の先にあるのは階段だけ。七階だというのに、エレベーターを使わず階段を選ぶ。そういうとこも、変わってない。
鞄についた、いつか私のあげたキーホールダーが揺れていた。

その後、隣にいた"驚愕ちゃん"に激しい詰問を受けたのは言うまでもない。
隠しているつもりはなかったが、男っぽい性格の私に"そういうの"がいた事自体が意外だったらしい。

私はノートに書かれた番号を携帯に登録する。
新規連絡先の名前は「おかえり」で。

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