『泡沫の夜華』

 慎ましやかに吐き出された煙管の煙が、ゆるりと踊りながら座敷の天井に溶けて行く。
 薄くなった紫煙の奥、鳳凰の描かれた金色の屏風の前で、煙草盆に手を付けた彼はおもむろに口を開いた。

「…お前が附廻になって、もう一月が経ったんだな」
「『まだ』一月にありんす。まことならわっちもまだ新造の身…姉様方の姿を見て、花魁になる為の教養を身につけているはずにありんすもの」
「馬鹿を言え、花魁としてはもう十分立派だ。下手をすればこの見世の昼三…いや、呼出よりも」
「まあ…主様はご冗談が上手にありんすね。わっちは一月前に水揚げされたばかりの青二才にありんすよ?」
 煙管を置いてふふ、と微笑めば、目の前に坐した仏頂面はあからさまに表情を曇らせて私から顔を背ける。
 と思えば、彼は「悪いが、二人にしてくれないか」と部屋の隅に座る禿達に声を掛けた。

「?…主様?」
「…」
 あい、おしげりなんし、と襖を閉めた彼女たちを見届けると、ずいとこちらへ身を寄せた彼はおもむろに私を抱きしめる。
 強く締め付けられる身体と「…情けないな」と零された声。髪に触れた柔らかい吐息に、先代の附廻から譲り受けた簪がしゃら、と音を立てる。

「武士が遊女に惚れた、なんて」
「…ッ」
「愚かだろう?俺はお前の間夫でも何でもない、ただの客に過ぎないのに」
 禿のいなくなった二人きりの部屋で、彼は皮肉げに笑みを零す。
「お前を水揚げした男も憎いし、他の客への嫉妬に狂いそうだ。…約束する。必ず、俺がお前を身請けする。…俺だけの女になれ」
 こちらを真っ直ぐに見据えた瞳が、いつの間にか灯されていた行灯の中で愁いに揺れて、私は小さく息を呑んだ。

 …身請けというのは、客が店から遊女を買い取り、年季の内に稼業を辞めさせる事。遊女が若くして遊郭を出る唯一の方法だけど…花魁を身請けするには、一生かかっても見ないような大金を支払わなければならない。
 もし吉原を出て、この人と結ばれて、この人だけを愛していけるのなら、どれほど…幸せだろう。
 私だって彼に惹かれている。幼くして実の親に売られ、人生の大半をこの街で過ごした私に、誰かを愛する幸せを教えてくれた人だから。
 …でも、女郎に堕ちた私には、そんな夢を見る資格なんて無い。
 愛するも地獄、愛されるも地獄の苦界。夜に売られた身。陽だまりに見捨てられた哀れな女は、花を求めて飛ぶ蝶に蜜を差し出す事しか出来ないから。
 遠くに聞こえる嬌声が刹那の酔いを醒まして、私は「主様」とそっと身を離した。

「主様のそのお気持ちだけで、わっちは十分にございんす。こんな所に堕ちた下賤な女を見初めて下さっただけで、わっちは…。…だからこそ、主様はわっちのような女郎ではなく、外の世界の素敵な女性と結ばれて下さんし。…わっちは、主様に釣り合うような高尚な女ではありんせん」
「しかし…」
「わっち達が『夫婦』でいられるのは、一夜限りにありんす」

 __ああ。どうして、こんなにも心が痛いのだろう。ここは吉原。全てがまやかし。一夜の間に愛を囁き合っても、この街では所詮『夢』にすぎない。
例え本当に想いが通じても、遊女は他の男とも夜を契らなければいけない。…そんな事、分かっていたはずなのに。
 驚きに見開かれた瞳の中で、帯を解いた滑稽な女が悩まし気に頬を染めた。

「さあさ、主様。わっちと遊んでおくんなまし」

 仄かな光に身を委ねた私は、貼り付けた微笑の裏で泣き喚く自分を押し殺すと…滲む視界から目を背けるように、そっと目を閉じた。

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