『邪魔な感触』

妻がいない。そして、もう二度と戻ってこないような気がする。それだけがやけに確かな感触として残っている。

感触って、何だよ。そう笑い飛ばそうとしたけれど、上手く笑えなかった。代わりにビールを呷る。休日の一杯は殊更に強調される。背徳感が。それも昼間というのが、それにまた拍車をかける。夜のアルコールは憂さ晴らしだ。逆に昼間のアルコールは、妙な幸福感に満たされる。自分に褒美を与えているような、それを後ろめたく思うような。そうやって渦巻く想いは嫌いじゃない。複雑なのが人間なのだから。

それにしても、妻はどこに行ったのだろう。おそらく出かけたのだろうが、それだとしたら俺に一声かけてもいいはずだ。それとも寝ていたから妻の声が聞こえなかった?

いや、それは、ありえない。

何故なら強制的に起こされたから。安眠中の掃除機ほど殺意を覚えるものはない。どうしたって不機嫌になるというものだろう。毎日働いて、働いて働きづめで、ようやく取れた休日。我が職場がブラックであることは、妻だって分かっているはずだ。不規則な時間帯で働いていることは、妻が一番よく知っている。何故なら一緒に住んでいるのだから。俺の妻なのだから。

それなのに、だ。妻は俺の事をまるで労わらない。労いの言葉一つない。それだけならまだ我慢出来たかもしれない。妻だって、専業主婦として日常の雑務をこなしているのだから。家事をこなすのが妻の仕事だから。俺はそんな妻に一言でも感謝の意を伝えた事があっただろうか。だから、我慢出来る。労わらないのはお互い様だという事で。

しかし、あの態度は無いだろう。折角の休みを惰眠で満喫しようとしているのに。あからさまな態度。

邪魔ね、あなた。

俺は聞き間違いかと思った。働き詰めでとうとう耳までおかしくなったのかと思った。だが違った。妻は続けてこう言ったのだから。

邪魔者はどっか行ってほしいわ。

俺は悲しくなった。こんな女を生涯の伴侶として選んだ事が。そして同時に怒りがわいた。俺はどうして働いているのか。日常を、日常らしく過ごすためだ。毎日の生活のためだ。お互いを支え合ってこそ家庭が回るのだ。それを、お前は、邪魔者と言った。

だからもう。俺はもう。それで、どうしたのだったか。口論になったのだったか。そしたら隣の家の旦那の話を出したのだったか。俺よりずっと立派な旦那だと言ったのだったか。そうだったか。確かそうだったか。

ああ、今思い出しても忌々しい。この苛立ちをアルコールで流してしまおう。いいだろう、もう一本飲んだとしても。今日は大事な休日。そして今は、一人の時間だ。

冷蔵庫を開ける。牛乳があり、納豆があり、昨日の晩飯の残りがあって、包丁があって、ビールがあって。俺は迷わず、ビールに手を伸ばす。

プルトップを開ける。喉を鳴らして流し込む。この感覚がたまらない。

視線が上を向いた。そりゃそうだ。ビールを呷ったのだから。天井が視界に入る。ついでに赤いものも。飛び散っている。天井に張り付いている。赤が。赤黒い、やつが。ついでに部屋を見渡した。辺りが真っ赤に染まっている。俺の服も。ビールを持つ手も。

ああ、そういう事か。

妻がいない。そして、もう二度と戻ってこないような気がする。それだけがやけに確かな感触として残っている。

感触って、あれか。

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