『卒展』

卒展の準備をしていた。深夜になり、どうやら間違えて暖房が切られたようだった。
「ここの空調、全館統一なんだ」
そう言って友人は我らの体温を死守すべく部屋から出て行った。
友人は僕が知る限りずっと人物画を書いていた。彼の向き合うキャンバスには、いつも決まって美少年が写し出されていった。それらの少年とは時に目が合い、時に横顔であり、時に全身像であり、しかしいつも美しかった。今まで見てきたどんな裸婦の絵画よりも官能的であった。彼の描く美少年に魅了される人は多く、賞をもらったりいい値段で取引されることも少なくない。
卒展にむけ彼がこしらえてきた美少年は、黒い髪と白い肌が印象的な横顔の若人だった。肩より下は意図的に筆が止められているが、絵を見る者には少年がキャンバスの外にある何かに腕を伸ばしていることがわかる。少年の瞳もその何かに向けられていた。この絵を仕上げている最中の友人に話しかけた際に飼い猫を殺められたかのごとき剣幕で怒られたことは記憶に新しいが、その時に彼は少年に長いまつ毛を生やしていた。長いあまりに重そうなまつ毛を与えられた少年は、日頃は目を半開きにするだろう。だが珍しく、この絵で切り取られた瞬間はその眼は最大限に見開かれている。“何か”はよほど少年を惹きつけているようだった。
僕は自分の作品である架空の世界のジオラマを並べながら少年との会話のない時間を過ごした。よく見ると少年の首には細く赤い線が走っていて、少年が昨日あたりに首を引っ掻いてしまったことがわかる。
「引っ掻かれたのかもしれないよ」
少年は赤い唇を開いてそう言った。
作者である友人と仲良くなりだした頃、僕は彼になぜ若い男ばかりを描くのか尋ねたことがある。
「好きだからだよ」
「女より?」
彼は僕をまじまじと見て、お前は心底単純だなと笑った。
「朝とスターウォーズ、どっちが好きって聞いてるようなもんだぞ」
それってどっちが男なのと尋ねると再び彼は笑って、だけど答えなかった。
彼は男色の気があるわけではなかった。学内では散々な噂が飛び交っていて、彼は絵のモデルとなる美少年を毎晩寝床に侍らせているのだという話も聞いたことがある。正しいものは一つもなかったが、彼は特に気にしていなかった。彼は高校生の時から奈都子という女と付き合っていた。僕は二回奈都子と会ったことがある。一回目は彼の家で、二回目は大学のアトリエで。奈都子はスズランの花みたいな可愛いらしさを持っていたが、二回目に会った時はまるで人喰い花であった。暇を持て余した僕が友人のアトリエに行くと、FBIの操作後かのような有様の室内に奈都子がいた。床には無惨に割かれ、切り刻まれ、割られた少年達の死体が積もっていた。閉め切られた室内に紙の繊維や埃が舞っていて、昼下がりの日差しでよく見えた。湯気のように漂うそれらの中で、奈都子は一目見てわかる狂気と共にあり、やがて僕を見つけた。冗談ではなく殺されるかもしれないという恐怖を感じたのは、人生で未だこの時だけだ。奈都子はしばらく僕を見て立ち尽くしていたが、再び手に持っていたデッサンをビリビリと破りだした。
「綺麗すぎる」
奈都子は粉々になっていくデッサンを眺めて呟いた。
「奈都子」
声に振り返ると、僕の後ろに友人が立っていた。室内の有様を目の当たりにした彼の表情を僕は鮮明に思い出す。衝撃、絶望、怒り、諦め、悲しみ。踏切で電車が通り過ぎるくらいの速度でそれらが彼の顔を横切っていって、電車が過ぎた後に見えた景色は妙に清々しかった。
一体どれだけかわからないが、恐らく結構な長さの時間を無言不動のまま過ごした。友人と奈都子は互いを見ていたので、僕はとんでもない所に居合わせてしまった気まずさを咀嚼して嚥下することしか出来なかった。
いいよ、と友人は呟いた。あまりにも小さな声だったので、奈都子には聞こえなかったと思う。
「許そうか?」
友人は見たことのない種類の笑顔でそう言った。奈都子の目からビー玉程もある涙がぼとぼとと落ちた。乱れた髪が涙で濡れていった。不思議と美しいと思った。ひゃぐっ、と一度しゃくり上げた次の瞬間、奈都子は走ってアトリエを出ていった。彼女とはそれきりらしい。ちなみに、あまりにも運悪く修羅場に居合わせてしまった僕も奈都子に続いてアトリエを出た。後日再びアトリエに行くと、綺麗さっぱり片付いた部屋の中で相変わらず彼は美少年を描いていた。

部屋に暖かい風が吹き始めた。友人は暖房をつけることに成功したらしい。僕は自分の作品からトマトを手に取った。
「どう?」
僕が尋ねると少年は
「いいよ」
と答えた。

「近代デザイン科の奴らが消したに違いないよ」
そう言いながら戻ってきた友人に僕はお礼を言う。次に彼は自分の作品を見て、部屋を出て行った時との違いに気がつく。少年は“何か”に手を伸ばしているのではない。“トマト”に手を伸ばしている。壁に投げつけられたトマトは見事にはりつき、飛沫は少年の白い肌に飛び散っていた。
しばらく黙った後、友人はこちらを見てニヤリと笑った。
「やってくれたな」
「嫌がらないって知ってたよ」
僕は言った。
ジオラマに足りなくなったトマトの代打としてじゃがいもを設置している間、友人は絵の題名を示すために付けるパネルに黒マジックで修正を施していた。
「どう?」
彼は僕にパネルを見せた。黒色でパネルに彫り込まれた“奈都子”がマジックで雑に塗りつぶされていて、横にお世辞にもきれいとは言えない彼の字で“トマト”とあった。
「いいよ」
と答えた。

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